江別市遺族会戦没者追悼法要~10月14日眞願寺で

毎年行われている江別市遺族会(会長鳴海征夫氏)の本年度追悼法要が10月14日に眞願寺本堂にて行われました。例年奉仕寺院で持ち回りし、会の位牌をお預かりさせていただいております。当日は江別市長はじめ関係諸氏並び御遺族皆様の参詣をいただく中で、市内奉仕寺院のご住職皆様とともに、ご法要を営まさせていただき、「真の平和」と「いのちの尊さ」を考えさせていただきました。そのご法要の趣旨を尊前に申し上げる表白文をご紹介いたします。また、その後には、毎年本願寺で9月18日に東京千鳥ヶ淵墓苑で行われています全戦没者追悼法要のおりに、紹介された作文をご紹介しました。(下記)

「戦争」とは、殺人を含めたあらゆる行為が肯定されてしまい、国や権力者によって多くのいのちが奪われていく、まさしく三悪道の世界でしょう。私たちはその煩悩罪濁に満ちた世界をきちんと見つめ、戦没者の方々をただ美化するのではなく、それを縁として亡くなって行かれたすべての方に、追悼の心を深くし、国や民族、政治や宗教を越えて、お互いのいのちを尊重しあえる世界を目指していかなければならないと思います。

親鸞聖人はご自身の事をよくよく見つめられました。だからこそ、ご自身のことを「罪業深重の凡夫」とおっしゃったのでしょう。先ずは「ありのままの己を知る」事からはじめ「自己中心的にしかいきられない私」に気づいていく事こそが、大切なことでしょう。真の平和とは、先ずおのれを知る事と思います。

表白文(抜粋)

思えば煩悩罪濁に満ちたこの人間世界は闘争の絶える時がなく耐えて戦争の無かった時代はありませんでした。
とりわけ先の大戦は十数年の長期にわたって全世界を戦火で覆いました。
その間、幾千万の人々がいのちをうしない親を亡くし子を奪われて悲嘆にくれた人は数を知りません。

今でも喪った肉親のことを朝夕に思い出し悲しみを新たにしている人も少なくありません。
わけても「殺してはならない」と仰せられたみほとけの御誡めをやぶり聖戦の名のもとに戦場に赴かなければならなかった佛教徒たちの悲痛な心を決して忘れることはできません。

しかし私どもの多くはそういう犠牲者たちの事を忘れ果てて今日の繁栄に酔いしれております。まことに恥ずかしいことであります。

今日の平和が先の戦争によって喪われた幾千万のいのちの犠牲の上にもたらされたものであることを常に思い起こして力の限り真の平和の実現に努めなければなりません。

『仏教におけるいのちのつながりと戦争』
京都女子中学校3年 青木晶子

現在世界では、百を越える地域で戦争や紛争が行われている。その中で今、この一秒の間に尊い命が奪われ続けているのだ。この世に存在するすべての人に平等に与えられた大切な「命」命とは一体なんなのか。

一人の人間が誕生した時、その背後には長い命の流れ、連鎖といったものが必ずある。両親、祖父母・・・とたどっていくと、何億人の命があってこその自分だということを改めて感じることができる。もっとスケールを大きくして考えてみると、地球が誕生した三十五億年前からの命の積み重ねで自分が存在すると理解できる。又、今私たちが生きている時代を見てみても、人は家族、友達、先生、親戚、たくさんの人々と縁でつながって生活を営んでいる。社会はこうした沢山の人間関係で構成されている。こうして考えてみると、命とはただの生物的生命をさすのではなく、この世の人々、自然とが一つになれる心のあらわれのようにも思えてくるのだ。戦争で人が殺されるということは、そういった人間同士、そして自然との関りが絶ちきられてしまうということになる。お釈迦様も「すべての者は暴力におびえる。すべての生物にとって生命は愛しい。己が身にひき比べて殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」とも言われている。

沢山の犠牲者を出した、第二次世界大戦後、日本は様々な発展を遂げ、豊かな国になったことは事実だ。失ったものも多い事を忘れてはならない。私はいつも思うのだが「南無阿弥陀仏」と唱え、一礼する姿はとても美しく、周りの者も自然と頭が下がる。手を合わせている時、争いごとや、悪いことを考えたりは決してしない。日々手を合わせ、感謝、反省の心を常に持ち、自分を磨く宗教を通して、人と人との心、そして、いのちのつながりを世界に伝えることのできる女性に私はなりたい。

『失われていくいのち』
敬愛高等学校3年 釜田彩花

「戦争」という言葉で感じるのは、「恐怖」だ。しかし、平成生まれの私にとって、そして日本で生まれ育った私にとって、この恐怖感は、戦争を経験した人の恐怖感とは比べ物にならないくらい薄っぺらいものだろう。戦争では、何より大切ないのちが失われる。一度失ったいのちは、もう戻ってこない。戦争は、たくさんのいのちを犠牲にし、粗末に消し去る。それをわかっているはずなのに・・・。

私は、敬愛高校に入学し、「仏教」という教科にとても感謝したい。この授業では、あらためて「いのち」の大切さを実感できる。この「いのち」の尊さを全世界に広めることができるなら、内戦やテロはなくなるだろう。

偶然生まれた国が日本という戦争がない国だった私。それに対し、偶然生まれた国が内戦で、兵士として戦わなければならない子どもたち。私とその子どもたちは、どちらも同じ「いのち」をもっている。同じ大きさで同じように尊い「いのち」のはずなのに、私が学校で授業を受け、昼に友達と楽しくお弁当を食べている間には、その子どもたちは銃を持ち、飢えと戦っているのだ。どんなに苦しく恐怖であふれているだろう。

「いのち」は、やり直すことはできない。一度きりだ。自分の「いのち」はもちろん、親の「いのち」、友達の「いのち」、他者の「いのち」全てがかけがえのないもので、誰もそれを傷つけてはならない。それなのに、人が人を殺すというニュースをテレビや新聞で見るのは、めずらしくない。悲しくなる。なくなっていい「いのち」なんてあるわけない。

世界から、戦争や殺人がなくなる日は来るのだろうか。「いのち」について、もっと考えていくべきである。

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