特集 親鸞聖人(5回連載)第2回 専修念佛への帰入 鈴木彰

ほとんど自らのことを語ることのなかった宗祖親鸞聖人の生涯や、信仰・恩想などを明らかにしたのは「恵心尼消息」(注1)であります。

ここには、比叡山で過ごされた青年期の20年を「殿(親鸞聖人)が比叡山で堂僧をつとめおいでになりました・・・」と記されております。 堂僧とは、比叡山横川の常行堂で常行三昧を修する僧であったと考えられます。

平安時代も後期になると、あの純粋な佛法者最澄の創建になる比叡山も、さまざまな問題を抱えていたようでありましたが、宗祖はひたすら佛の悟りを求めて、それこそ夜を徹して、教典を読み血の滲むような修行に専念されておられました。

しかし、真摯に佛道に邁進すればするほど、聖道自力の教えがどんなに難しいものであり、もはやこの比叡山には、悩みを解決してくれる教えも人も、見あたらぬことを知らされるのであります。


信行両座(しんぎょうりょうざ)

またこの消息には「殿が比叡山をおりられ、六角堂(注2)に百日間おこもりになり、後世(注3)のたすかるように祈念あそばされましたら、95日目の明け方、夢の中で聖徳太子が偈文(注4)を唱えられて、後世の問題を解決する道をお示し下さいました」と記されております。

20年間親しんだ比叡山を、宗祖は降りられたのです。その生活を捨てたのです。29歳の春でありました。しきりに心をよぎりゆくものは、噂に聞く吉水の法然房源空上人のことでありました。

そして、その夜明けに六角堂を出て、吉水の草庵で、法然上人に遇われるのであります。「弥陀の本願の根本は老少も、善悪も一切問わない。なぜなら罪深き、さまざまな煩悩に苦しみ、悩む人々こそ、救われ、解放されなければならない人だからです」と聞かされ、さらに吉水に百日通って聞法を続けたのであります。

その後の法然上人との6年間(注5)は、宗祖の生涯の中でもっとも充実し、「遇うべきもの(真実)に遇った」というよろこびの時であったと考えられます。

法然上人の門弟は、僧侶だけでも300人を越えていたと言いますが、思想の継続者として最も信頼され、心を許した限られた門弟のうちの一人であったとおもわれます。

そのことは、師の主著『選択本願念佛集』(注6)の書写を許されたことでも分かります。このことについて宗祖は『教行信証』(注7)後序に次のように記しております。

「・・・この書を拝見し写し取ることができた門弟は、きわめて少ない」との悦びを記されております。
山を降りたのち、宗祖は妻帯し、阿弥陀佛の教えによる救済と成佛の道をひたすら歩むことになります。
法然上人の説く専修念佛への帰入でした。そして、このよき人との邂逅が、生涯の重要な機縁となったことは、いうまでもありません。

続く
◎参考資料等は全5回終了後に掲載させていただきます。

注記

(注1)1921年(大正10)西本願寺より発見された宗祖の内室恵信尼様から、京都の末娘覚信尼様に書き送られた手紙。
(注2)聖徳太子開創の天台宗頂法寺。本堂は如意輪観音、本堂が六角形なので、六角堂と俗称されます。
(注3)死して後に来る世界。すなわち次の生涯を言います。
(注4)佛の教えや佛・菩薩の徳をたたえるのに詩句の体裁でのべたもの。
(注5)師法然上人のもとに通ったのは1201年(建仁元)から、35歳で専修念佛禁止の法難に遭う1207年(建永2)2月までの丸6年間続けられました。
(注6)法然上人著、浄土三部経の経文を引用し、それに対する善導の解釈を引き、さらに上人自身の考えをのべるという形をとっております。末法の世においては称名念佛だけが相応する教えであり、雑行を投げ捨てて念佛の正行に帰入すべきことが説かれております。
(注7)宗祖親鸞聖人の著作、浄土真宗の立教開宗の根本聖典、東国在往時代に一応まとまり、宗祖が往生なされるまで補訂しつづけた永遠に未定の書とも言われます。念佛の要文を集め、ご自分の解釈も入れ、体系的に叙述しています。無量寿経を唯一の根本聖典とし、教・行・信・証・真佛土・化身土の構成で、この世での往生成佛を説いております。

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