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法名は生きているときに授かる~帰敬式のおすすめ~

法名とは、「死んでからの名前」と思われている方が多くおられますが、それは大きな間違いです。葬儀の時に自分のお寺の住職がつけるのは、その亡くなった方が、本来授かっていなければならない法名をいただいていなかったから、緊急の処置として、つけさせていただいているものです。

そもそも、法名というものは、佛法に帰依した人の名前(キリスト教のクリスチャン・ネームのようなもの)で、主に京都の本願寺で行われる帰敬式(おかみそり)を受けた人に対して、ご門主から授与されるものなのです。つまり「佛教徒としての自覚を持って生きる」証の名前であり、生きているうちに授かるべき性質のものです。帰敬式

葬儀の時、導師が「おかみそり」を行うのは、生前帰敬式を受けることなく亡くなったからで、ご門主になりかわって行っているのです。

浄土真宗の教えは、「阿弥陀如来のはたらきによって、凡夫の私がありのままでお浄土に往き生まれさせていただき、佛とならさせていただく」のです。「必ず救うぞ」という阿弥陀様のお声に、「すべておまかせいたします」と私がお誓い申し上げ、名実ともに佛弟子とならさせていただくことは、なににもかえがたい大切な儀式といえるでしょう。

帰敬式は、通常京都本願寺で毎日2回行われています。詳しくは眞願寺までお尋ねください。

眞願寺で帰敬式(おかみそり)を

特例措置の方対象に平成16年春実施予定

当欄でご紹介させていただいた通り、帰敬式を受式し、法名を授かることは大切なことです。しかし、京都まで一泊以上で旅行することが、実質無理な方もおられるのではないかと思います。そのような方を対象に、本願寺では御門主の御代行として当地に派遣し、帰敬式を行う条例が制定されました。

眞願寺では、来春に御門徒の皆様にお呼びかけをさせていただき、ご縁ある方々に、眞願寺本堂にて受式していただきたく、準備をさせていただいております。どうぞお気軽にお問い合わせいただき、お申し込み下さい。

帰敬式特例処置の対象について

  • 申込は申請書に自書捺印し申請理由書と副申書(客観的証明・医師などの証明書)を添付し提出して下さい。
  • 次の各号に該当する方は帰敬式の特例処置を願い出ることが出来ます。
    1. 健康上および身体上の理由によって、本山(京都本願寺)での受式が不可能なとき。
    2. 客観的に、本山(京都本願寺)での受式が不可能であることが証明できること。
  • 冥加金(受式費用)は1名1万円です。その他諸費(執行者の経費分担金)として1万円、合計2万円です。受式が許可されてからお寺までお届け下さい。
  • 申込は、10月末までに申請書を眞願寺に提出して下さい。
  • 帰敬式の日程につきましては、平成16年3月頃を予定しております。本願寺より許可された時点で、日程を決めさせていただきます。

詳細・申請書は眞願寺住職までお問い合わせ下さい。

院号を付けると「位」があがる?「居士」や「大姉」は?

法名をいただいていないご門徒が亡くなりますと、導師を勤める住職が、ご門主に代わり「おかみそり」(帰敬式)を行い、法名を授けることになりますが、その際、御遺族の要望で「院号」をつけることがあります。

この院号、実は誤解なさっている方が、多いようです。たとえば「故人の社会的地位に見合ういい名前を」とか「院号や字数が多いほど位が上がる」といった感覚で、院号を希望されたり、お金で院号を買うかのように「院号料は高い!」と言われる方もおられます。もっとも臨終勤行の時に、私達僧侶も「院号はおつけいたしますか?」とお尋ねしますので、それが誤解に拍車をかけているのかもしれません。

浄土真宗のみ教えは、社会的地位や修行の度合いによって死後の「位」が定まるのではなく、信心一つで皆等しくお浄土に生まれることができる教えです。そのみ教えに帰依した人に与えられるのが法名です。ですから法名以外に「霊位」や「位」の字をつけることはしません。また「居士」や「大姉」「信士」「信女」といった言葉も使いません。字数の多少や院号の有無によってくらいが決められるのではなく、皆等しくお浄土という最上の悟りの世界に生まれさせていただくのです。

それでは、院号とは何かというと、仏法を弘め宗門護持に尽くされた人を讃える意味で贈られるものなのです。

具体的には、眞願寺の場合ですと、宗門(浄土真宗本願寺派・京都本願寺)の護持発展に役立てる意味の「院号懇志」を一定額以上納めた方に対し、そのお扱いとして本願寺より永代経開闢法要のご案内とともに、交付されます。

ただ、多くは遺族が故人を追慕する形で懇志を納めますので、遺族の方もみ教えを慶び宗門発展を願う気持ちが大切です。けっしてお金で買うものではありません。
なお、生前に院号を希望される場合は、御本尊にておかみそり(帰敬式)を受け、法名を拝授されていなければなりませんので、ご注意下さい。(法名については次回掲載いたします)

位牌はいらないの?

故人の法名を刻んだ位牌をお仏壇の中に入れているお宅がけっこうあります。その位牌の前にはお仏飯やお水が供えられていたり、ひどい場合には、ご本尊がかくれてしまう位置に位牌が置かれていたりします。

これではなんのためにお仏壇を求め、ご本尊をお迎えしたのかわかりません。どうもこの位牌が「お仏壇は死者をまつる所」という誤解を助長しているようい思われます。この際、浄土真宗では「位牌は用いない」ということをしっかりおさえておいてください。

そもそも位牌というのは、中国の儒家で用いられていたものでした。すなわち、故人の生存中の官位と姓名を書き記したふたが位牌で、そこには神霊が宿ると信じられていました。やがて日本の先祖崇拝と結びつき、仏教にも転用されるようになったのですが、根底には仏教の教えとかけ離れた「霊の宿るところ」という意識が、なお濃く残っていると言わねばなりません。

位牌を故人として見立てて、生前好きだった食物を供えたり、またのどを潤すためにお水を供えるのもこうした意識の表れです。浄土真宗で位牌を用いないのは、そうした仏教にそぐわない霊魂観に基づいたものだからです。(めくり位牌も使用しません)

それでは、故人を偲ぶよすがは何もないのかというと、そうではありません。過去帳か法名軸(あるいは御本山からいただいた院号法名)をお使いください。過去帳等ない方は、お寺までご相談ください。住職が、法名等をお書きいたします。過去帳は先祖の記録帳のようなもので、故人の法名・俗名・御命日・年齢などを記しておきます。命日や法事の時に過去帳をおく場合は台にのせて開け、ご本尊の妨げとならないようにお仏壇の中段か下段に置きます。もちろん過去帳の前には、お供物などのお供えはいたしませんので、ご注意ください。

眞願寺では、今年7月より、葬儀の時も位牌を廃止し、法名を書いたものを額に入れてかざらせていただいています。

異なる宗教を一緒に信仰できますか?

ある御同行から、こんな質問を受けました。

Q:隣近所のお友達から、ある宗教に誘われました。その宗教は生きている時の信仰だから、家の宗教である佛教を持っていても、問題はないので、入りませんかということでした。私は、その方とのお付き合いもあり、家が浄土真宗であっても問題ないのなら、入ろうかと思うんですが、いかがでしょうか?

A:信仰(宗教)は、生きているときと死んでからの2つには分けられません。今、生きているからこそ、死を見つめ、生きていることの尊さを見つめていくことが一番大切なことです。その時に、異なった教え(心のよりどころ)を一緒に聞き信仰することは無理でしょう。

浄土真宗は、阿弥陀如来の本願(はたらき)によって、浄土に往生させていただく教えです。そのためには、こころ一つに阿弥陀如来にすべてをおまかせしなければなりません。そして、「私はいのち終わるその時に、喜びの世界浄土に生まれ佛とならさせていただく」のです。

先に往生されたご先祖の方々が、今生きている私に、「あなたもこころ一つにお念仏をいただいて下さい」と呼びかけて下さっています。できればいつまでも長生きしたい、元気でいたいと思いますが、「われやさき、ひとやさき、今日とも知らず、明日とも知らず」の蓮如上人御文章のように、諸行無常の世界にいる私です。

いつ終わるかわからないいのちであるからこそ、いのち終われば必ず佛にならさせていただくことができるわが身であることを喜び、お念佛をこころの拠り所として、力強く生きぬかさせていただこうではありませんか。
私は、浄土真宗の門徒ですので、他の信仰を一緒に持つことはできませんと、はっきりお断り下さることが大切でしょう。

玄関先にこの様につけることも出来ます。

私たちは浄土真宗の門徒です
他宗教の勧誘等は固く御断りいたします


お仏壇にご先祖が入っている? ご先祖はどこでなにを?

先日あるご門徒のお宅で「お仏壇は、ご本尊である阿弥陀如来を安置するところで、先祖をおまつりするためのものではありませんよ」とお話しましたら、こんな質問を受けました。

「これまで、お佛壇にはご先祖が入っておられるとばかり思い、ご先祖に感謝の念を込めて手を合わせていました。確かに阿弥陀様も大事ですが、ご先祖も大切に思っています。お佛壇が先祖をまつる所ではないとしたら、いったいご先祖はどこにおられるのですか?」と。

先祖思いの門徒さんなのですが、どうも阿弥陀様とご先祖を対立的に別々の存在として捉えてしまっているようです。
「先祖をまつる所ではない」と言ったのは、ご先祖を実体的に捉え、たとえば霊魂のようなものがお佛壇の中に入っていて、しかもその霊魂は生前の我執に基づく意志や感情を抱いたまま存在し、生きているものがそうしたご先祖の霊を畏敬し慰めるためにまつる・・・というのではないということです。そもそも、固定的な実体としての霊魂を否定するのが佛教なのです。

それでは、ご先祖はどうなったかというと、阿弥陀様のお浄土に還られ、阿弥陀様と同じ佛様になられたと味わうのです。
お浄土は本来、色も形もない真実そのものの世界であり、我々のはからいを超えた世界でありますが、それを何とか形に表そうとしたのがお佛壇の造りだと言われています。

したがってお佛壇では、ご先祖を拝むというよりは、ご先祖が還られたお浄土を偲び、ご先祖をお救いくださった阿弥陀如来のご本願のお心を味わさせていただくのです。
さらに、ご先祖の願いを聞くと、何も「自分に手を合わせてくれ」とは思っておられないでしょう。むしろ、「真実の親である如来様のご本願を信じ、力強い人生を歩んでくれ」と願われています。そうしたご先祖の願いを聞き、阿弥陀様に心から手を合わすことが、すなわちご先祖を敬い、感謝することになるのです。