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大遠忌と共に開教125年~本願寺新報に掲載

特集 親鸞聖人(5回連載)第3回 専修念佛弾圧と流罪 鈴木彰

法然上人の専修念佛の教えは、京都を中心に年毎に信者を拡大していきました。これにともなって旧佛教教団である奈良の興福寺や、比叡山延暦寺からの攻撃が始まり、凶暴な嵐は日に日に吹きまくり、念佛を禁止せよという訴えが朝廷にに出されたのであります。

出家佛教に根本的意義を認めない教えと、国家繁栄の祈願などを否定する専修念佛を「亡国の音」として、旧佛教教団が、朝廷に対して弾圧の論理を提供したのであります。聖人が法然上人のもとに入ってより、わずか三年目、三十二歳の秋でありました。

承元元年(1207)、ついに朝廷は法然教団に対する弾圧を開始しました。いわゆる承元法難であります。専修念佛禁止と法然上人や親鸞聖人など7名の流罪と、4名の死罪が決定したのであります。

法然上人は土佐へ、聖人は藤井善信という流人としての名を与えられ、越後(現在の新潟県)へと、それぞれ配流されたのであります。ときに齢三十五歳でありました。

『親鸞聖人上陸の地』居多ヶ浜(こたがはま)から配所へと歩まれたものと思われますが、配所では流刑者に課せられている掟どおり、監視の下で、荒地の開墾に自活の道を見出さねばならなかったものと思われます。

しかし決して自らを間違いとして認められたのではありませんし、いかなる政治的抑圧にも屈することはありませんでした。『教行信証』(注1)

後序には、次のように記されております。専修念佛教団に弾圧を加えた主上(天皇)と臣下(その家来の政治家たち)を、「法に背き義に違し」た理不尽者と決めつけ、自分たちの佛教が、国家の求めているような宗教ではないことを認識し、『非僧非俗』すなわち僧にあらず、俗にあらずと言っているのであります。

もはや国家権力を至上のものとする僧でもなければ、俗でもないという明確な立場を主張されたのであります。

続く
◎参考資料等は全5回終了後に掲載させていただきます。

注記

  (注1)浄土真宗の立教開宗の根本聖典であり、念佛の要文を集め、ご自分の解釈を入れ、体系的に叙述しています。無量寿経を唯一の根本聖典とし、教・行・信・証・真佛土・化身土の構成で、この世での往生成佛を説いています。(正信偈もこの中の行巻末に書かれています)