月別アーカイブ: 3月 2008

グリーンイグアナのみどちゃん(富野さん・大麻)


グリーンイグアナのみどちゃん♀8才です。
赤ちゃんの時(緑色でハムスター位の大きさだった)に捨てられ警察に保護されていたの。今は115㎝になりました。車に乗ってさんぽするのが大好き♪好きな食べ物は『小松菜』です。よろしくね~

ミニチュアダックスフンド・パピオン・ミックス(釜谷さん・上江別)


ミニチュアダックスフンドのララ♀10才、パピオンのセル・一平3才、ミックスのくう・そら(双子)2才、ころすけ ♂1才です。
得意なのは、おすわりとお手かな。教えるのもこの状態ではねえ・・・。
夜は私のところと旦那のところに3匹ずつ寝ているの。元気なかわいい6匹です!

親鸞聖人御正忌報恩講に参加して ~壮年会幹事 支部英孝

明西寺の皆様と、右から3番目筆者

本願寺総御堂の前にて

石堂住職様と壮年会事務局長の鈴木誠さんに、親鸞聖人御正忌報恩講参加のお誘いをうけ、平成20年1月12日から14日の日程で、京都本願寺にご参拝することができました。

参加者は鈴木さんと私の2名で、1月12日朝8時の全日空機で一路京都に向け出発いたしました。

午前10時に神戸新空港に到着。阪急電車にて京都へ移動し、午後1時30分には本願寺に無事到着しました。

午後2時から、御正忌報恩講の逮夜法要のお参りをすることができましたが、本願寺の広さと、ご本堂の大きさにびっくりし、なにはともあれご中に入らねばと、靴を脱いだものの、本堂内の参拝者の多さに二度びっくりし、少しずつ詰めていただき、やっと席を確保するという、にぎやかさでありました。

お逮夜法要には、住職さまもご出勤されており、準備のため前日の11日より本願寺に参られておりました。法要は、内陣中央に安置された親鸞聖人のお木像に正対して、御門主様、その左に新門様、そして内陣左に結衆各7名、合計16名が御出勤され、内陣脇の両余間には、各50名、合計100名の僧侶が正座しておりました。


出勤中の住職


御本山の親鸞聖人

当寺の住職さまも、新門さまの左側におそろいの朱袈裟で、結衆14名の中に入られており、誇らしいやらうれしいやら、いつもお寺で見る住職さまとは思えぬ高貴さを感じました。
さらに、外陣最前列では80名以上による雅楽の、なま演奏が入り、読経のお声との和音が、ますます厳粛で高貴な雰囲気をかもし出しており、さすがは本願寺の、御正忌報恩講であると感じ、参拝できた喜びが込み上げてきました。

夕方、御出勤終了後の住職さまと合流、さらに住職さまの実家である東京明西寺様ご住職と壮年会役員の方々とも合流し、夕食をともにしながら懇親を深めることもでき、たいへん有意義なご参拝となりました。

翌日は、住職さまに同行して、当寺125周年事業に関わる、衣や袈裟等の打ち合わせのため、御本山門前の法衣店などを訪問し、普段目にすることの出来ない経験と、目の保養をさせていただきました。

京都の格式の高さと、当寺住職さまの力を改めて知る良い機会となり、参加のお声を掛けて下さいました全ての方々に感謝申し上げると共に、快くこの報恩講に送り出してくれた、家族に対しても、ありがとうと言いたいと思います。

合 掌

坊守から・平成20年3月

 生命保険会社で募集している「サラリーマン川柳」皆さんは聞いたことがありますか。私は子供の担任の先生が学級便りで紹介してくれた時から毎年楽しみにしています。毎回その年の話題になったり、流行語にまつわるものが多いのが特徴らしいです。今年のベスト100のなかでいくつかご紹介します。

  • 母の味  三つ星よりも  口に合い
  • 国民の  年金、損なの関係ねえ
  • 「今帰る」妻からの返信「まだいいよ」
  • 年の瀬に  値上げ値上げで  音をあげる
  • メタボまで  2センチあるわと  食べる妻
  • 妻の後  三歩下がって  カート押す
  • 減っていく…  ボーナス・年金・髪・愛情
  • [忙しい」  言いつつ向かうは  喫煙所
  • 温暖化  おなかの肉は  段々化
  • これがエコ  孫とそい寝で  ポッカポカ

ご主人達の切なる思いが伝わってくるようですね。エコをテーマにしたものも多く、自分にもあてはまるものがありました「買っただけ いつも忘れる エコバック」と。

今年ももう2ヶ月がすぎました。今年の目標は「無財の七施」の心施(心づかい)をわすれないということです。思うだけにならないよう日暮らしさせていただきたいと思います。みなさま今年もどうぞ宜しくお願いいたします。

特集 親鸞聖人(5回連載)第2回 専修念佛への帰入 鈴木彰

ほとんど自らのことを語ることのなかった宗祖親鸞聖人の生涯や、信仰・恩想などを明らかにしたのは「恵心尼消息」(注1)であります。

ここには、比叡山で過ごされた青年期の20年を「殿(親鸞聖人)が比叡山で堂僧をつとめおいでになりました・・・」と記されております。 堂僧とは、比叡山横川の常行堂で常行三昧を修する僧であったと考えられます。

平安時代も後期になると、あの純粋な佛法者最澄の創建になる比叡山も、さまざまな問題を抱えていたようでありましたが、宗祖はひたすら佛の悟りを求めて、それこそ夜を徹して、教典を読み血の滲むような修行に専念されておられました。

しかし、真摯に佛道に邁進すればするほど、聖道自力の教えがどんなに難しいものであり、もはやこの比叡山には、悩みを解決してくれる教えも人も、見あたらぬことを知らされるのであります。


信行両座(しんぎょうりょうざ)

またこの消息には「殿が比叡山をおりられ、六角堂(注2)に百日間おこもりになり、後世(注3)のたすかるように祈念あそばされましたら、95日目の明け方、夢の中で聖徳太子が偈文(注4)を唱えられて、後世の問題を解決する道をお示し下さいました」と記されております。

20年間親しんだ比叡山を、宗祖は降りられたのです。その生活を捨てたのです。29歳の春でありました。しきりに心をよぎりゆくものは、噂に聞く吉水の法然房源空上人のことでありました。

そして、その夜明けに六角堂を出て、吉水の草庵で、法然上人に遇われるのであります。「弥陀の本願の根本は老少も、善悪も一切問わない。なぜなら罪深き、さまざまな煩悩に苦しみ、悩む人々こそ、救われ、解放されなければならない人だからです」と聞かされ、さらに吉水に百日通って聞法を続けたのであります。

その後の法然上人との6年間(注5)は、宗祖の生涯の中でもっとも充実し、「遇うべきもの(真実)に遇った」というよろこびの時であったと考えられます。

法然上人の門弟は、僧侶だけでも300人を越えていたと言いますが、思想の継続者として最も信頼され、心を許した限られた門弟のうちの一人であったとおもわれます。

そのことは、師の主著『選択本願念佛集』(注6)の書写を許されたことでも分かります。このことについて宗祖は『教行信証』(注7)後序に次のように記しております。

「・・・この書を拝見し写し取ることができた門弟は、きわめて少ない」との悦びを記されております。
山を降りたのち、宗祖は妻帯し、阿弥陀佛の教えによる救済と成佛の道をひたすら歩むことになります。
法然上人の説く専修念佛への帰入でした。そして、このよき人との邂逅が、生涯の重要な機縁となったことは、いうまでもありません。

続く
◎参考資料等は全5回終了後に掲載させていただきます。

注記

(注1)1921年(大正10)西本願寺より発見された宗祖の内室恵信尼様から、京都の末娘覚信尼様に書き送られた手紙。
(注2)聖徳太子開創の天台宗頂法寺。本堂は如意輪観音、本堂が六角形なので、六角堂と俗称されます。
(注3)死して後に来る世界。すなわち次の生涯を言います。
(注4)佛の教えや佛・菩薩の徳をたたえるのに詩句の体裁でのべたもの。
(注5)師法然上人のもとに通ったのは1201年(建仁元)から、35歳で専修念佛禁止の法難に遭う1207年(建永2)2月までの丸6年間続けられました。
(注6)法然上人著、浄土三部経の経文を引用し、それに対する善導の解釈を引き、さらに上人自身の考えをのべるという形をとっております。末法の世においては称名念佛だけが相応する教えであり、雑行を投げ捨てて念佛の正行に帰入すべきことが説かれております。
(注7)宗祖親鸞聖人の著作、浄土真宗の立教開宗の根本聖典、東国在往時代に一応まとまり、宗祖が往生なされるまで補訂しつづけた永遠に未定の書とも言われます。念佛の要文を集め、ご自分の解釈も入れ、体系的に叙述しています。無量寿経を唯一の根本聖典とし、教・行・信・証・真佛土・化身土の構成で、この世での往生成佛を説いております。