月別アーカイブ: 3月 2003

戦争反対

あらゆる戦争に反対いたします。
「天上天下唯我独尊」天にも地にも我一人尊しとおっしゃった釈尊の意味を味わえば、この世に自分と全く同じ人間はいないということでしょう。だからこそ、私のいのちは尊いものだ、ということだと思います。それは全人類に同じことが言えます。宗教的に考えても、自分たちの教義などの都合によって、戦争やテロを起こしていいというものや、戦争を美化し神からの祝福を期待することは、非常に嘆かわしいことです。

時に今日は春の彼岸を迎えさせていただいています。ともにいのちの尊さを認めあい、銃を握りしめるのではなく、その手から力を抜き、自己を振り返りつつ、合掌させていただきましょう。

平成15年3月19日

受け継ごう、このお寺を、お念佛のともしびを

19日報恩講「ともしびの集い」にお詣りいただいた二人が、手にともしびをいただいて…「おばあちゃん、このおあかり、どこにもっていくの?」「これはねえ、のの様におそなえするのよ。さあ、気をつけて、ちゃんと持って、いっしょにおそなえしましょうね。」「うん。そぉっとだね。」…「おじいちゃんも、おばあちゃんも、お父さんも、お母さんも、妹も、そして僕もみんな佛様の子どもだね。」「そうよ、やさしい佛さまのお顔をよく見てごらん。ぼくをいつでも見つめてくださっているわよ。手を合わせて、さあ、おまいりしましょ」「うん。ののさま、ありがとう。」「なまんだぶ…なまんだぶ…」写真からそんなあたたかな会話が、響いてきそうですね。

平成15年3月 寺報「響」
≪写真は安孫子喜一君≫

院号を付けると「位」があがる?「居士」や「大姉」は?

法名をいただいていないご門徒が亡くなりますと、導師を勤める住職が、ご門主に代わり「おかみそり」(帰敬式)を行い、法名を授けることになりますが、その際、御遺族の要望で「院号」をつけることがあります。

この院号、実は誤解なさっている方が、多いようです。たとえば「故人の社会的地位に見合ういい名前を」とか「院号や字数が多いほど位が上がる」といった感覚で、院号を希望されたり、お金で院号を買うかのように「院号料は高い!」と言われる方もおられます。もっとも臨終勤行の時に、私達僧侶も「院号はおつけいたしますか?」とお尋ねしますので、それが誤解に拍車をかけているのかもしれません。

浄土真宗のみ教えは、社会的地位や修行の度合いによって死後の「位」が定まるのではなく、信心一つで皆等しくお浄土に生まれることができる教えです。そのみ教えに帰依した人に与えられるのが法名です。ですから法名以外に「霊位」や「位」の字をつけることはしません。また「居士」や「大姉」「信士」「信女」といった言葉も使いません。字数の多少や院号の有無によってくらいが決められるのではなく、皆等しくお浄土という最上の悟りの世界に生まれさせていただくのです。

それでは、院号とは何かというと、仏法を弘め宗門護持に尽くされた人を讃える意味で贈られるものなのです。

具体的には、眞願寺の場合ですと、宗門(浄土真宗本願寺派・京都本願寺)の護持発展に役立てる意味の「院号懇志」を一定額以上納めた方に対し、そのお扱いとして本願寺より永代経開闢法要のご案内とともに、交付されます。

ただ、多くは遺族が故人を追慕する形で懇志を納めますので、遺族の方もみ教えを慶び宗門発展を願う気持ちが大切です。けっしてお金で買うものではありません。
なお、生前に院号を希望される場合は、御本尊にておかみそり(帰敬式)を受け、法名を拝授されていなければなりませんので、ご注意下さい。(法名については次回掲載いたします)

四季おりおり 和讃に学ぶ

四季おりおり和讃に学ぶ今回は「四季おりおり 和讃に学ぶ」寺川幽芳著をご紹介いたします。

著者あとがきに「…まず何よりも親鸞聖人が系統立てて書かれた和讃を、こうしたつまみ食いのような形で取り上げてよいのだろうか…ということがありました。私は現在でも、このことにこだわりをもっているのですが…」とありますが、聖人が仏徳を讃嘆する同一の目的と意識をもって、総計542首という古今無類の一大作品の中から65首のみ本書への掲載が、著者にそう言わせているのかもしれません。

また「…聖人が誰にでもわかりやすくと願って詠まれた和讃だから、そう堅苦しく考えなくてもゆるしてもらえるだろうと、勝手に言い訳を自分にしながら…」とも記しておりますが、和讃は和語(日本語)で書かれた仏教讃歌ともいうべきものであります。阿弥陀仏のご本願のみ教えを私たちにも分かる平易な言葉でお示しになり、ともに仏徳を讃仰することを、お勧め下さっておるのです。

いうまでもなく、親鸞聖人の主著は、漢文で書かれた「教行信証」であり、それは立教の根本聖典という意味で「ご本典」と尊称されておりますが、和讃は「和語のご本典」といわれる所以であります。

本書は「単なる和讃の解説ではなく、四季おりおりの風物や社会の出来事にちなんで現代に生きる者の一人として率直に感じたことや考えるところを、和讃に学びつつ記す」と書かれておりますが、毎日一首ずつ和讃にこめられたお心を、よく味わって読み進む、そんな座右の書としての読み方をお勧めしたい一本でもあります。