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参拝旅行を終えて 釋縁顕(髙間 満昭)様より

親鸞聖人750回大遠忌法要第一期団体参拝の参加者を代表して旅行記を書いていただきましたので、ご紹介させていただきます。

親鸞聖人750回忌大遠忌法要参拝団に参加して

西日本等では卯の花が咲く頃(初夏=梅雨)北海道札幌教区12班の親鸞聖人750回忌大遠忌法要参拝団は6月9日早朝に廣間山眞願寺境内を坊守さんに見送られ出発しました。

新千歳空港から神戸空港に着き京都の桂川を渡り「西山別院」へと向いました。
別院は旧本願寺阿弥陀堂を移築したもので現在は浄土真宗本願寺派の「得度習礼・教師教修研修道場」「西山幼稚園」を境内に併設し、本願寺教団の創設者で親鸞聖人の曾孫に当る覚如上人の御廟所であり、我が眞願寺の住職石堂了正さまも若き折り西山別院にお勤めされていた重要なお寺であります。我々一行は本堂にて「讃佛偈」をあげ覚如上人御廟をお参りし対面所にて昼食をいただきました。

御廟所は大きい樹が墳墓の上に根を張り正和の時代から変わりない命の流れを今に伝えているようでした。私が一番印象的だったのは、境内で子供達がボール遊びをして母親達が立ち話をしている境内風景であります。別院のような有名で重要なお寺の境内で遊ぶ子供達の姿は私の中にあるお寺風景と重なり強い印象と安らぎを感じました。

午後より参詣しました親鸞聖人の御廟「大谷本廟」には「・・・・先人にならいまずご廟に跪き、聖人の生涯を偲びつつ、南無阿弥陀佛とお念佛を申しましょう」と記されていました。親鸞聖人750回大遠忌とのことで普段は入れない明著堂の堂内で南無阿弥陀佛と念佛申すことは出来ましたが、聖人の生涯を偲びつつの参詣は勉強不足の為、不十分と思いながらの参拝でした。

また、大谷本廟には第一・第二無量寿堂納骨堂があり今回も幾人かの方が分骨されていましたし、先に納骨されている方は久しぶりのお参りとなったようで、それぞれの思いのなかで一時を過ごされておりました。

1日目の宿の場所は近くを散策するだけで数日を必要と思える場所で二条大橋と三条大橋の間に位置していました。近くの一角を数分歩くと、土佐藩邸跡・長州藩邸跡には桂小五郎像があり芸妓幾松と一緒に暮らしたと言われる料亭幾松があり数丁離れたところには池田屋騒動の池田屋跡・薩摩ゆかりの跡地など現代日本の夜明けの足跡を思わせる地域でありました。さらに、鴨川に平行して高瀬川が流れていますが、高瀬舟で知られる「一之舟入」と言われる終着地が夕食をいただいた懐石料理「がんこ高瀬二条苑」とホテルの中間点の高瀬川に碑が建っていることから水運の拠点であった事を物語っていました。

2日目は親鸞聖人750回大遠忌法要参拝の日であります。
本願寺に到着しますと多くのバスと参拝者でしたが、見事な誘導のもと整然と境内に入り法要参拝記念写真を撮影した後法要が行われる御影堂に入りましたが3000人以上の人で一杯でした。 我々札幌教区12班は45名ですが、新潟の地蔵堂A・B併せ195名、石川(鳳珠)217名等々大きい参拝団も多く見受けられました。
石川の皆さんは黄色い三角巾を首にまいて本堂内陣正面前列に居ましたので一段と大集団のように感じました。

我々は正面向かい左奥で本堂内陣は大型モニターでしか見ることが出来ませんでしたが、太鼓が近くにあり、ある雰囲気を感じるには十分でしたし、住職さんのご出勤姿もモニターで見ることが出来ました。

大遠忌法要は総局挨拶から始まり、記念布教福田布教使のお話し・ご門主様・新門様のご挨拶と今年3月の東日本大震災への哀悼と取り組みについて、親鸞聖人750回大遠忌法要のスローガン「世のなか 安穏なれ」についてお話し頂きましたが、現代社会の現実の中でどのように考えていくか実質的な行動は難しいテーマであると思われてなりません。バスガイドさんの話では中日新聞で親鸞聖人の特集をしているとのことでしたが、北海道新聞や京都新聞等で五木寛之『親鸞』を連載しています。

また、6月15日某TV 局で「人に価値あり!法然と親鸞、救いの道を探究した・・・・」タイトル番組が放映されていました。何故法然上人や親鸞聖人が「南無阿弥陀佛」にたどりついたか等々大変わかりやすく説明されている番組でした。
京都であれ地方であれ、今年は多くの人が仏教に接し、多少の時間を共有することが出来たのでないでしょうか。
このような時、西本願寺においてご門主様・新門様共に全国の門信徒の皆様共々「宗祖讃仰作法」によりお参りできたことは、かけがえのない一日でした。
今回の法要を縁に私達夫婦を含め13名が阿弥陀堂にて帰敬式に参列し、おかみそりを受けてまいりました。(法名は釋縁顕といただきました。)

京都から宿泊予定の岐阜長良川までは名神高速道路で養老を経由し一ノ宮より名岐バイパスで木曽川を渡り岐南町切通の“浄慶寺”に向いました。予定より遅れての到着でしたのでお寺の皆さんが今かとお待ちになっておられたようでした。
お寺の前の道路は昔の中仙道であり交通の要であるとともに地域としても栄えたようで、お寺の名前が市場山浄慶寺とあり、ホームページによりますと開基は文明18(1486)年また元和7(1621)年第12世准如上人より寺号をいただいたとのことです。
長い歴史のなかを地域の方々と共に現在に引き継がれた事が偲ばれるお寺で、浄慶寺の坊守さんは眞願寺住職さんのイトコとのことで、住職さんはじめお接待してくださった門信徒の皆さん穏やかな雰囲気のお寺で、住職さん坊守さんが地域と寄り添っての日々を思いお参りさせていただいた一時でした。
浄慶寺のホームページは一見に値する素晴らしい充実したものなので何かの機会に閲覧されるのも一考かと思います。
当日の宿泊は長良川沿いにあるホテルで日没後、鵜飼を楽しみました。
3日目は東海北陸自動車道を北上し飛騨古川から飛騨白川郷へと向いました。途中のひるがの高原SAでは日本三名山の白山・長良川源流の大日ヶ岳を仰ぎ見ることが出来るそうですが、あいにくの曇り空のため麗姿を見ることは出来ませんでした。さらに東海北陸自動車道で日本の道路トンネルとして第3位の飛騨トンネルを通過し白川郷に至り合掌造りの集落を展望しました。

萱葺きの葺き替え等の話から全国でも珍しい萱葺き合掌造りの明善寺を訪れることとなりお寺の庫裡は郷土館で民具等が展示公開されており本堂へは庫裡を通ります。
浄土真宗のお寺とのことでしたが、住職さんによると真宗大谷派で寺号をいただいたのが延享元年(1744年)とのことなので、長きに渡り地域の人々の生活と共に現在に至ったことが推察することが出来るお寺でした。本尊の阿弥陀如来立像はどえらいキンピカでした。

昼食も水田や社寺に囲まれた合掌造りの館で頂き飛騨古川へと向いました。飛騨古川は古い町並みもあり伝統風習が残る飛騨文化地域で、古川には浄土真宗本願寺派の円光寺・真宗寺・本光寺の三寺があり1月15日に親鸞聖人のご恩を偲び夜通しで詣でる「三寺まいり」は地域文化として今も多くの人々が参加されているそうです。

我々は三寺の一つ真宗寺に向かい参拝させていただきました。住職さんは30代で愛犬との独身生活との事でしたが、愛犬が洋犬でなく和犬ならもっと絵になったのにと私的には少し残念でした。
岐阜一宮等々から冬の野麦峠を越え故郷へ帰ってきた娘さん達はどんな思いで三寺まいりし、雪の野麦峠を越えて出稼ぎに戻って行ったのかと思う時、胸のつまるものがあります。
しかし、その時代から三寺が地域にとって身近な場所であり心の支えであり安らぎや喜び等のお寺であったのだと思われます。
飛騨古川は和ローソクが有名で、全て手作りの和ローソクは飛騨古川だけとのことでした。

古川を後にした我々は日光東照宮の「ねむり猫」等で有名な左甚五郎生誕の地と言われている飛騨高山の高山祭屋台会館を見学しました。写真やテレビなどで見る屋台やカラクリ人形は匠伝統の積み重ねで圧倒的な技術を我々に見せていますが、なぜ飛騨の奥の山郷で木工だけでなく塗り・金具等々の匠が育って行ったのか不思議に思われてなりません。
私達夫婦は名古屋から別ルートで帰ってきましたが、3泊4日を明るい皆さんと一緒に旅が出来た事を大変嬉しく思っています。
親鸞聖人750回大遠忌法要に皆さんと一緒に参加し旅させていただき有難うございました。

法名 釋縁顕(髙間 満昭)

お佛壇のお取り次ぎ

眞願寺では、使えなくなったお佛壇でまだまだきれいで新しいものはお預かりして、御門徒の方で、欲しい方がいれば差し上げています。
ここ10年間で 20台以上のお佛壇を一時お寺で預かり差し上げています。今回はその例を紹介します。

遷座法要~住職様のひとことから~ 木村様

長男が亡くなってから丸3年を迎えた祥月命日の日のこと。住職さんのお参りをいただき、集まってくれた親戚と共に阿弥陀経のおつとめをして、ありし日の息子の姿を思い起こしておりました。ご本堂で追悼法要をさせていただいてからもう3年になるとは日の過ぎるのは本当に早く感じるとともに、ふと今でも名古屋の地で仕事に精を出しているのではと思ったりします。

お参りも終わり雑談の中、住職さんのひとこと「木村さん、仏壇いらないかい?」とのこと。
「えっ、どういうことですか?」とお尋ねすると、「仏壇を新しく購入され、以前の仏壇をお寺で引き取ってほしい」ということでした。洗いに出され金箔張り替えられ、今の言葉でいうとリフォームされた立派な仏壇で、大きさもだいたい同じ位かもう少し大きいかも知れませんがというお話しが切り出されました。私どもの仏壇は60年程経っているようですが、洗いや箔の張り替え、漆の塗り替えにはとうてい耐えられそうにもなく、日々の扱いも気を付けながらのお荘厳でした。何とかしなくてはと、ひそかに考えていたところでもありましたが、そんなところも住職さんは見抜かれていらしたのかも知れません。あつかましくと思いながらも間口を測り住職さんに託すこととなり、入らなければお寺でお預かりするということになりました。

先方とのお話が進み、4日後には我が家に搬入と決まり、下さる方は南幌の吉田さんでご本堂では、ご一緒になるお顔なじみのご主人様のお宅でした。
当日は住職さんと共においで下さり、吉田さんの指示の下、梱包も順序よく解かれ、入るかどうかと心配しておられましたが、まるで注文したようにピッタリ収まりました。住職さんの御手によりご絵像ご本尊脇掛と移され、仏具も収められお荘厳されました。

住職さん、吉田さん、私共「落ち着きましたね。よかった、よかった。」とそれぞれの立場の思いの中での感謝の言葉でした。遷座法要をお願いすることとなりましたが、急がずとも団参が終わり息子の月参りの日にと決まりました。

数年前より、お寺の2階広間に厚別の遠藤家(第三世坊守の生家)より頂戴した仏壇が床の間に安置されております。仏壇の授受については何のわだかまりもないものと受けとめさせておりました。納骨堂3階に今現在数基の仏壇が預けられているそうです。私共の古い仏壇は住職さんとご相談のうえ、我が家で懇ろに解体し、我が家でおたきあげ処分致しました。
記念すべき50年に一度の親鸞聖人750回大遠忌法要に門信徒の皆さんと共に参拝、大谷本廟では息子にこの度のことを報告することができました。

遷座法要には吉田様ご夫妻にお越しいただいて、娘を嫁に出したような思いですと落ち着いたところを見ていただき安心をしていただきました。私共がいただいたご法縁をこれから大切にしてゆきたいと存じます。主人は毎朝の読経とご文章拝読。一段とあたたかく光り輝く金仏壇に手を合わせております。団参を中に我が家での1ヶ月の間の出来事でありましたが、平成23年親鸞聖人750回大遠忌法要の年、忘れられない年となり、御住職、吉田様のお心を頂戴いたしありがたく、又、沢山のご法縁に出遇わせていただき深く感謝申し上げます。ありがとうございました。 合掌

法名 釋恩厚(木村 慶子)

代々つながるお佛壇  江別市・嶋中様

謹啓 盛夏の候、ますますご発展の事お喜び申し上げます。
平素は格別のご厚情を賜り、誠に恐縮しております。

このたびはご住職様よりご縁をいただき、とても立派なお仏壇を譲っていただくことができました。
このようなご縁に恵まれましたのもご住職様をはじめ、皆様方の温かいご指導ご助力のおかげと、深く感謝申し上げます。

立派な仏壇のまえで 子供たちと手を合わせ生前の母の話しをしております。
大切に、代々つながるように使わせていただきたいと存じます。
有難う御座いました。

平成23年7月20日
江別市 嶋中修道

参拝旅行を終えて 釋浄行(萩原 明美)様より

親鸞聖人750回大遠忌法要第一期団体参拝の参加者を代表して旅行記を書いていただきましたので、ご紹介させていただきます。

参拝旅行を終えて

今年は「東日本大震災」という悲しい出来事があり「命」について深く考えさせられたことです。その中を「親鸞聖人750回大遠忌法要」参拝旅行に参加させていただきました。
1日目は当寺了正ご住職様が数年間おられたという歴史ある西山別院をお参りさせていただき、夕食には美しい舞妓さんが同席され京都の風情をあじわいました。

翌日は御影堂で全国各地から来た多くの門徒の方々とご法要を共にしました。ご法要のあとご門主様、新門様より「お言葉」があり有難く拝聴させていただきました。その後阿弥陀堂に移り帰敬式があり、13名の方が受式されました。大谷本廟では皆さんが見守るなか3名の納骨を終えました。帰りには当寺了正ご住職様と従妹様が坊守をされている浄慶寺をお参りさせていただきました。山門前の道路はかつて中仙道ということで往時が偲ばれたことです。夜は長良川で鵜飼を見学しました。暗闇の中、鵜飼舟がかがり火を照らし流れの遠くには岐阜城がライトアップされ本当に絵になる光景でした。

3日目は日本三大秘境の一つといわれる白川郷へ。深い山間の白川村に300年という歴史ある明善寺をお参りさせていただきました。鐘楼門も本堂も茅葺きで水田の側には濃紫色のあやめが咲きとてもきれいでした。飛騨では真宗寺をお参りさせていただき本堂に白いかわいい犬が何度も飛び入りしては私達を笑わせてくれたことです。
最終日は高山陣屋を見学し朝市での買物と古い町並みを散策。この旅では花も私達を迎えてくれました。水上に咲く蓮の花、白い花の山法師、手のひらより大きい朴葉。帰りには名古屋城を登り皆さんと共に楽しみました。歴史ある町や村、寺院をお参りさせていただき又帰敬式にも参加でき良い思い出となりました。
これからも銀杏の樹は本願寺を末長く見守り続けてくれることと思います。合掌

法名 釋浄行(萩原 明美)

私の思い-今を生きる- 津澤 美智子

花

私が53歳の時でした。生活が急変しました。

それまで元気だった夫が、突然、交通事故でなくなりました。まさかこんなに早い別れなんて・・

体じゅうの力がぬけ、涙もでませんでした。死というものがこわくて、受けとめることができませんでした。その後、一時体調をくずしましたが、有り難いことに、友人からの声で「民謡」をしてみないかと言われたのが今の私です。夫の死後、悲しく苦しい体験をしました。このままではいけない、元気になって頑張らなくてはと、気を取り戻し、「生かされているから何でもやってみる」そんな思いにかきたてられ・・夫を失った後、「今を生きる」ことの大切さを実感しました。

あれから20年、今こうして元気をもらっていますのは、仏様が見守ってくださっているんだとの思いと檀家の皆様に支えられ、そしてお寺の住職の説法に励まされながら生きる喜びのできることは本当に有り難いことだと感謝しています。

ひとたび去った「時」は逆戻りするということはできません。そんな自分の一生を真剣に考えさせてくれたのが、今にして思えば民謡との出会いでした。民謡を続けてきてよかったと思っております。

民謡は日本古来の伝統文化「心のふるさとの唄」です。私は、今しかできない「時間」を民謡を通して、仲間とボランティア活動や社会福祉活動に、またこども達を育てる喜びを感じております。心境としては、今を生きる自分の心の姿勢、生きる心の姿勢をしっかり持って、人々の心に「潤い」と「安らぎ」「元気」を与えられるよう心して一日一日を大切に活動を続けていきたいと思っています。

歌の仲間と出会って「生きる力」を得ました。歌は私の宝です。歌こそ人生探しとおもって、今では、打ち込める歌に「生き甲斐を」もてたこと、とても幸せを感じています。

楽しむことは「本気で取り組む」ことだと知りました。高齢になった私にとって命の尊さを実感しています。楽しく生活のできること夢のようです。

これからも命の続く限り心の通う種を蒔き、一人でも喜んで戴けるよう心して生きたいと念じております。

今集まっている民謡教室も「人間が生きている蓄積」です。「自分を生かすこと」のできる場です。人生80年時代といわれる時代です。まさしく老後の生活はこれからです。「生きる意味や張り合い」等が大事になってくるものと思っております。

仏様と民謡と出会って、「健康」「思いやりの心」「優しさ」を実感しています。これからも与えられている命の限り、微力ながら、「希望と勇気と行動」をもって、今の自分をもっと輝けるよう心がけていきたいと思っています。

本願寺展を観て思うこと~大沼 峰子

北海道立近代美術館を会場として、4月17日から5月23日までの37日間、親鸞聖人七百五十回大遠忌の記念事業の一環として、本願寺展が開催されました。多くの方々が足を運ばれ、その文化遺産と美の世界に触れられたことと思いますが、今回は書道に造詣の深いご門徒の大沼峰子さんにご感想を記していただきました。

 

もう二度と拝見出来ない国宝も随分あり、老若男女沢山の人で混雑し、前の方で拝見する事は無理でした。

説明を聴きながら、やっとの思いで聖人様が写経された阿弥陀経だけは立ち止まって拝見出来ました。

当時、戦国の動乱時、宗教の弾圧でお寺は焼かれ、本当に御苦労された事と存じます。まだ、紙などは絹よりも高価であったと聞いております。その上、明るさは今と違い、油を灯した下で写経なさった阿弥陀経は、私共が詠むのにも時間がかかりますのに、写経なさる事はとても御苦労された事と存じます。一心に写経なされたお姿が目に浮かび目頭が熱くなりました。紙質の悪い用紙の裏表に、びっしりと書いたものもあり、もう一つは筆字もはっきり読みとれ、用紙も少し良い様に思われました。物資も豊富に恵まれた時代を迎えた今日、物を大切にしなければならないと存じます。

系図も始めて見ましたし、人物画像のお掛軸など、時代と共に色彩も鮮明になりましたが、現在の様に恵まれた者にとり、植物、樹や石などを砕き擦ったり、随分と手間がかかった事でしょう。大きく書かれた六字の名号すべて拝見するのが初めてでした私には、本当に感銘の深いものばかり感謝一様の気持で拝見出来ました。