Category Archives: 眞願寺の古きをたずねて

画像と書状

眞願寺で元旦会に奉献される三幅と明如上人画像(左から3番目が明如上人)
尚、明如上人画像は明治36年以降に下付されたものです。

西本願寺による北海道開教の歴史は、第20代廣如上人の時代を黎明期とすれば、第21代明如上人の明治の初期が、本格的な開教の夜明けであります。

眞願寺は明治17(1884)年、当時の札幌郡対雁村に本願寺札幌別院が開設した対江説教所を起源としております。

明如上人が北海道の地に第一歩を印したのは、明治20(1887)年であります。各地を巡教した後、札幌別院で最初の陳情を受けられたのが、共救社社長上野正氏によるものであります。

共救社とは樺太アイヌの人びとを世話するために設立された任意の団体であります。陳情の第一はコレラや天然痘で死去された樺太アイヌの人々の追悼碑の碑文ご染筆の要請であり、第二は対江説教所の寺院への引き直しであります。

追悼碑につきましては、明如上人ご染筆の『乘佛本願生彼國』と刻まれた碑が、対雁の地に建立されました。

対江説教所の寺院への引き直しにつきましては、明治22年5月28日、眞願寺として認められ、現在にいたっております。その年の12月14日、三幅の画像が下付されました。下の写真にある『上宮太子尊形』『三朝髙図像』『本願寺前住職廣如画像』と、その書状であります。

ところで、平成20年9月27日に修行された当寺親鸞聖人750回大遠忌法要の折の導師は、大阪府八尾市顕証寺ご住職近松照俊師でありました。顕証寺は蓮如上人の開基、本願寺連枝の寺でもあります。廣如上人は、この寺の住職でありましたが、第20代門主となられた方であります。また、第21代門主となられた明如上人は、ご子息でもあります。

近松師は、当寺本堂余間に掲げられている廣如上人・明如上人の御前に「深い因縁を覚えます」と、述懐なされていたそうですが、ただただ深い縁(えにし)と、感謝の思いに掌を合わせるのみです。


本願寺から下付された三幅の書状

梵鐘

梵鐘

雪の境内に篝(かがり)火(び)が焚かれ、沢山の人たちが見上げるなか、ひとりひとりが鐘楼堂に上がり、思いをこめて鐘を撞く。そして、除夜会の鐘が十方に響き渡ります。なんとも感動的な場面ではありませんか。

ところで、梵鐘は別名「集会鐘」とも言われ、法要や儀式を開始するに先立ってこれを撞き、参集の合図をします。撞き方には決まりがありまして、打数は10回、各間隔をゆっくり空けて、余音がかすかになってから次を撞き、最後の一打は間隔を少し早めに撞きます。また、出棺の折りにも撞かせていただいております。

お寺の鐘の音には、童謡などにも出てくるような、どこか牧歌的で、郷愁を誘う安らぎを覚える人もおるのではないかと思います。しかし、そんな梵鐘にも戦時中の哀しくも、いまわしい記憶が秘められているのです。

ときの政府は戦争の激化による資源欠乏を解決すべく、昭和17年5月に金属回収に関する指令を出し、寺院等に対しては、梵鐘・佛具等の供出を命じたのであります。そして、供出された金属類は兵器となり、多くの人を傷つけ、命まで奪う武器となったのです。これほど残酷で悲しいことがあるでしょうか。

かくして、梵鐘のない鐘楼堂が20年近くも続いたのでありますが、昭和36年からの伽藍修復や境内整備の一環として、梵鐘の復活が実現したのであります。その喜びはがいかばかりであったか、当寺の門信徒の方々の歓喜の声が、今でも耳に聞こえてくるようであります。

梵鐘には、次のような刻銘があります。

南 無 阿 彌 陀 佛
浄 土 真 宗 本 願 寺 派
廣 間 山 眞 願 寺
第 三 世
願主 石 堂 廓 悟
施主 門 信 徒 一 同
昭和三十六年八月
黄綬褒章拜受
高岡市鑄物師老子次右爲
正覺大音響流十方

梵鐘

なお、この年には本堂の改修がなされ、従来の畳敷きからコンクリート床、椅子席に改修され、本堂と庫裡との間に控室を設け、渡り廊下付属施設の階上に住居を新築しました。また、納骨堂の一期工事も完成、境内も門信徒多数の方々の献木等により、すべてが完成したのであります。

喚鐘と大太鼓


喚鐘

本堂での法要儀式などは、すべて喚鐘(行事鐘)によって始まります。
その鐘は本堂回廊の奥の方に吊されておりますが、寄付者は「札幌区井須音吉」同じく「福井県大野町佐野新三郎」と刻銘され、日付は明治41年11月となっております。

戦時中、全国のすべての寺院から金属の佛具が強制的に供出させられました。当寺の梵鐘をはじめとして、多くの佛具も例外ではありませんでした。

戦争の激化による資源欠乏を解決すべく、昭和17年5月金属類回収に関する指令が出され、寺院等に対して、梵鐘、佛具等の供出が命じられました。

しかし、この喚鐘は供出の難を免れたのです。それは次の通達文の解釈によってではなかろうかと推察されます。(下線をほどこした部分)通達は次のように記されております。

  • イ.梵鐘、簾、付属品は即時供出
  • ロ.半鐘、灯明用具、輪灯は法要儀式の簡易化により供出(注)半鐘は喚鐘のこと
  • ハ.五具足類は、全部回収せらるるも必要の最小限度に限り、代用品をもって供出のこと。献納目録は寺に保存し、できれば写真を撮影し置くこと


供出した梵鐘をリヤカーで運ぶ

なお、寄付者名にある井須音吉氏につきましては、市内の同姓の方などを尋ねたりもしましたが、関係のある方ではないことなども判明いたしました。

井須音吉氏は、大正6年に大太鼓も寄付されております。ここには「札幌北五条東二丁目」と記されており、さらに寄付者に高野源氏の名もあり、住所は「札幌○○九条西三丁目」となっており、物故者として高野姓3名、井須姓4名、阿部姓1名が法名と共に、太鼓の胴の部分に墨書されております。

これら篤信の方々の名と共に、いつの世までも喚鐘の音色が本堂に絶ゆることなく響きつづけることを願ってやみません。

旧本尊阿弥陀如来像

平成15年に行なわれた開教当時の史実調査の折、当眞願寺旧本尊の阿弥陀如来像の足ほぞ(注1)の右に「康雲拝見(注2)」の墨書銘、左に「●(注3)」の墨印が確認されました。

浄土真宗では、末寺が任意に阿弥陀如来像を安置することはできず、これらについては一定の手順によって、本山より下付を受けなければなりません。

本願寺本山佛師の「康雲」につきましては、まだまだ不明な点が多く、今後のさらなる調査研究が待たれるわけでありますが、代々「こううん」を名乗り、ほぼ江戸時代全般にわたって、佛像製作を担当していたことが知られております。

如来像は蓮華座の上に、やや前傾気味に立ち、像高49.8センチ、構造はヒノキ材の寄木造りで、玉眼を嵌入、表面の仕上げは、肉身部が金泥、衣部が漆箔をほどこし、こちらを見詰めております。古く江戸時代の製作であることは間違いありません。

掌を合わせれば、しみじみと125年前の本寺創建の頃が思い偲ばれてなりません。この後もまた、この寺の続くかぎり、私たち門信徒をお見守り下さい。

現在は第1納骨堂正面に御安置されております。

[注1]木を組み合わせるとき、一方の端を削って、他の穴に入れる突出部のこと。蓮華座に穴をあけ、像の突起の部分を差し入れて接合する。「ほぞ」の漢字は右の文字です

[注2]墨書銘については「康雲拝見」とありますが、明治初期の本道の教線拡大にあたり、佛像の新造が、何らかの理由により不可能となり、以前からあった像が本山の要請に応じて、像の吟味鑑定がなされ、その際の署名が「拝見」ではなかろうか。
これはあくまでも推察であり、確かなことではありません。

[注3]●の部分には右の文字が入ります 

石燈籠

【このコーナーでは寺内法宝物等をご紹介いたしますのでお楽しみに】

長い歳月境内にありました石燈籠一対につきましては、このたびの山門や鐘楼堂移築等により、その老朽化もあり、惜しまれながらも撤去せざるを得ませんでした。

つきましては、後世への資料の一助にもとの思いもあり、寄贈者 小林リタさん縁の方と、住職との往復書簡をご紹介させていただきます。
なお、小林リタさんは昭和9年4月26日に68歳にてご往生されておりました。

住職からの手紙

眞願寺の古きをたずねて
小林様

謹啓 お念佛ご相続の中、益々ご清祥のことと存じます。
過去帳、まちがいなく謹製させていただきましたので、お納め下さい。

さて、お電話でおはなしいたしました、境内にあった石燈籠の写真を送付させていただきます。

たまたま書かせていただきながら、ふと思い返し、調べましたところ、間違いないなので、お知らせいたしました。現在当寺では開教よりの記念誌を制作しておりますので、小林リタ様のことでわかることがありましたら、お知らせいただければ、ありがたく存じます。写真には樺太落合町とありますが、そこに住まわれていたのでしょうか?寄贈は大正初期と思われますが、当時のことで何かあれば、お願いいたします。

秋も深くなります。どうかご自愛下さいませ。 合掌

平成20年10月27日
眞願寺住職 石堂 了正

小林リタさん縁の小林英也さんからの手紙

前略

いつも大変ご配慮を頂き有難うございます。

先日は母の七回忌の法要を勤めて頂き有難うございました。
又この度はご多忙中にも拘わらず新しい過去帳にご記帳の上ご送付頂き心より御礼申し上げます。
又祖母リタが寄付させて頂いたと思われる石燈籠の写真までお送り頂きお礼の言葉もございません。

写真の寄付名が樺太・落合町・胡月料理店・小林リタになっておりますので私の祖母に間違いないと思います。
私の父忠作の兄信策が樺太落合町で胡月料理店を営んでいたことは間違いございません。
祖母は信策と住んでいましたが、江別にも居たことがあるようにも記憶していますので両地を行き来していたと考えられます。

樺太へ信策一家が移住した時期は分かりませんが、祖父茂作の死亡届が江別にて大正九年に出されておりますのでそれ以降ではないかと思われます、従って寄贈させて頂いたのは大正九年以降と思われます。

向寒の折お忙しい毎日をお過ごしの事と存じますがどうぞご健康にご留意の上益々の御活躍をお祈り申し上げます。

末筆になりましたがお母様、奥様に宜しくお伝え下さい。

草々

平成20年11月2日
眞願寺御住職様

小林英也