親鸞さまの里」カテゴリーアーカイブ

連載シリーズ 親鸞さまの里 3

清楚であり、重みを感じさせる佇まいは、親鸞さまを偲ばせる。室町期に建立されたという茅葺屋根のおもむき深い楼門を見上げる私は、えも言われぬ感慨に包み込まれて言葉を失っていた。

常陸の国笠間の郡稲田郷
    秋さかりなり参道を行く
参道の落葉踏みつつ行く先に
   茅葺屋根の山門は見ゆ


 平成12年の団体参拝旅行は、3泊4日の『親鸞聖人関東御旧跡の旅』であった。私は古里の地を巡る喜びに有頂天になっていたかもしれない。この時の旅行記(寺報9号)の執筆は市川一夫氏であった。「苔むす茅葺屋根の山門を前にして、何か心洗われる思いがした」と記している。氏とは同年齢でもあり、月忌詣りや常例法座の折などには、親しく会話させていただいたものである。すでに浄土に往かれたが、思い出は尽きない。
 親鸞さま一家が住んでおられたという稲田の茅庵を、受け継がれたのが西念寺である。境内には、親鸞さま所縁のものが残されている。お手植えといわれる「お葉つき公孫樹」や、「お杖杉」「弁円ざんげの桜」等である。

お手植えの公孫樹の大樹聳え立つ 庵の庭は葉を散り敷きて

 境内に佇む私の耳に流れてくるものがあった。「ひそかに考えてみると、わたしたちには思いはかることも及ばない阿弥陀の広大な誓いは、渡ることのむつかしい迷いの海を渡らせてくださる大きな船であり、なにものにもさえぎられない光は、心理に暗い愚かさの闇を破ってくださる智慧の陽光である」(石田端麿訳)で始まる『教行信証』の言葉が流れてくるような錯覚に襲われる。
この静かな環境の下で、『教行信証』の原型は成立したと推定されている。

『教行信証』の著作の里は筑波へと
   低くつらなり山ふところに


 その後、京都に戻られてから細部にわたる加筆・修正が重ねられ、それは80歳を越えられた後までも続けられていたという。まさに『教行信証』は「生涯をかけての書」なのである。

親鸞が稲田の里を旅立ちし
     見返り橋は刈田のなかに


 立ち去りがたい思いに、私たちは見返り橋を眺め続けていたのである。

釋彰響(鈴木 彰)

連載シリーズ 親鸞さまの里 2

 親鸞さまは六十歳を過ぎて、常陸から京都へお戻りになられたという。残された弟子たちはそれぞれの地域の道場や寺に集まり、信心を守り発展させていった。指導者となったのが面授の弟子(直弟)たちであり、やがて『二十四輩』という名称が生まれる。二十四輩とは、大まかに言えば有力弟子二十四人という意味であり、それぞれの寺で布教伝導に励んだのである。枕石寺もまた二十四輩の寺の一つである。
 現在、浄土真宗では自らを一向宗とは言わないが、幾百年もの長い間をこの地方では、そんな呼び方が一般的であった。老人たちの会話には、今でもそんな言い方に違和感はなく、葬儀や年中行事などでも、どこか他の宗派の家とは異なるものがあった。
 例えば葬儀に先立って個人の茶碗を割るとか、棺を回して自宅を出るとか、釘を石で打って棺を閉じるという、そんな習俗はない。ただ、「死は穢れ」という考え方から、清めの塩の風習は後々まで続いていた。このことが無くなったのは、そう古いことではない。私の母の葬儀は昭和六十三年、土葬の葬法でであった。清めの塩を使わないということに対して、「清め塩を使わない葬儀には出られない」と言って、集落の有力者が憤然として席を立ったということを聞かされたものである。
 また、年中行事についても、こんな記憶が残されている。一向宗の私の家では、節分の豆撒きの行事はなかった。「福は内、鬼は外」の声に、限りない羨望の聞き耳を立てて滅入っていたものである。次の日の「綴方」の課題は豆撒きであった。「私の家の中は時を刻む時計の音だけが・・・・」と書いた作文を、皆の前で読まされた。静かさと淋しさを時計の音で表現したことが良いというのである。作文などで誉められたことなどなかったので、それ以後作文などの類いに熱中するようになった。
 しかし、一向宗の家庭にも神棚があり、屋敷の一隅には氏神様の祠があった。火葬は佛教の葬法であり、この地では土葬の葬法が後々まで行われていた。藩政時代の火葬禁止令の残滓である。
 ところで立教の聖典『教行信証』が書かれたのは、稲田の草庵であるとされているが、ここから布教伝導に出かける親鸞さまを、機会があれば殺害しようと企てていたのが山伏弁円であった。しかし、教えに服して弟子となり、名を明法と改めて、一つの寺(上宮寺)を創建した。
 毎年の報恩講の夕べに聞く『御伝抄』のなかの、あの方なのである。この寺もまた二十四輩の一寺であり、私の家の手次の寺である。
 土葬の墓所はすでにコンクリートに改められ、かつての面影はない。ただ、享保や文政と刻まれた苔むした小さな墓石だけが、吹く風の夕景のなかに、土葬の昔を懐かしむように、ちんまりと建っている。

釋彰響(鈴木 彰)

27-01
写真 平成12年11月
眞願寺団体参拝旅行で訪れた板敷山大覚寺様 前列左より二人目筆者

連載シリーズ 親鸞さまの里 1

 清流に架かる長い橋を渡ると、間もなく祖父母の待つ曲屋が近づく。阿武隈の支脈が迫る氾濫原である地帯は、自然堤防上に集落が形成されている。いわば関東平野が北に尽きる辺りである。右岸の私の村は関東ローム層の台地にあり、地質の相違は農産物にも大きな相違がある。親鸞さまが布教伝道に歩まれた時代は奥郡と呼ばれた地帯である。
 青味がかって見える阿武隈の支脈の一箇所に、ひときわ目を引きつける逆三角形の白い山肌が眺められる。江戸の世からの大理石の産地である。
白色の結晶石灰岩は寒水石ともいわれ、水戸徳川藩の御留山として、一般の採掘は禁止されていた。遠い鎌倉の世の親鸞さまも、この山並みを眺められたに違いない。この地には史実・伝説ないまぜて多くのことが語り継がれており、親鸞さま縁の幾つもの寺がある。
 母の後先に纏りついて歩く子供たちも、枕石寺の屋根が見えてくると母を取り囲む。幾度か聞かされている親鸞さまの話なので、私は結末を諳んじている。母を囲んだ妹の一人は、就学前に逝ってしまった。梅の香の漂うなかで、私は隠れて泣いた。
 『出家とその弟子』の著書を知るのは後年のことであるが、倉田百三がこの寺の創建にかかわる話を素材として、宗教文学に独自の境地を拓いた、あの戯曲を書きあげたのである。
 ある雪の降り続く夕暮れ、親鸞さまがとある家の前に立って一夜の宿を請うた。しかし、断られて雪と褥に横たわったという。その夜主の夢の中に現れた観音が「起きて門前の僧を請じ入れよ」という声にはね起きてみると、吹雪の中で親鸞さまが石を枕に休んでいたという。早速迎え入れて無礼を詫びて弟子となり、やがて自分の家を寺にしたという。
枕石寺創建の言い伝えである。寺には『御枕石』があると聞くが、私は写真で見ただけである。
 流刑地越後よりやって来た親鸞さまが、常陸で過ごした歳月は、四十歳からほぼ二十年というが、どうして京都に帰らずに常陸を目指して来たのか、いまだ定説はないという。
理由の一つとしてあげられるのは、恵信尼さまの生家三善家の所領が常陸にあったとする説である。また、関東に向かって移住した農民の流れに従ったとする北陸・越後移住民の同行説がある。さらに救世観音の夢告説や領主の招致説など、東国移住の動機を推測する諸説があるが、何れにしてもその根本には布教伝道の固い意思が貫かれていたに違いない。

釋彰響(鈴木彰)

22-01

22-02