眞願寺の古きをたずねて」カテゴリーアーカイブ

98年ぶりの大修復完成 大太鼓

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10日の朝の境内は真っ白に染まり、雪景色になりました。昨日から20㎝は積もったでしょうか。江別らしい師走となりました。

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真っ赤な実をたくさん残した境内のナナカマドもその実の上にきれいな綿帽子をかぶり、かわいらしい姿を見せてくれています。遠くに見える江別小学校のレンガともとてもマッチしていいですね。

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さて、本堂外陣周り廊下に設置してある大太鼓を、今年10月に修理に出してありましたが、今日完成してお帰りいただきました。両面の皮を張り替えて、塗装もかけ直しました。

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DSCF2477大正6年に寄贈いただきましてから98年目の大修復となりましたが、音色も張りのあるきれいな音となり、設置された当時の音となったことでしょう。代々受け継がれたものを、修復し後世に残せる幸せを、有り難く頂戴させていただきました。

報恩講はじめご法要の前に、総代さんに打っていただくことと思います。太鼓といえば当寺にはもう一つ経切り太鼓がありますが、その太鼓も本堂落成の折に、修復させていただいています。

DSCF2471_edited-1使い捨てのものが多くなってきた時代ではありますが、それによってものを大事にする心がうすれてきたように思えます。しかし法衣や佛具は、古き良きものを修復しながら受け継ぐことが出来るからこそ、大切に扱えるのでしょうね。

対雁(ついしかり)の碑(いしぶみ)

 明治8年、日本とロシアの間で樺太千島交換条約が締結され、樺太南部のアイヌ人108戸、841人が北海道に移住させられました。
 紆余曲折のすえ対雁への農業移民として移されたのは明治9年のことでありました。
アイヌ移民の生活を混乱に陥れたのは、明治12年春以降、全国的に蔓延したコレラ等の伝染病でした。犠牲者数は319人となりました。当眞願寺の過去帳によれば、351人と記録されておりますが、これは伝染病以外の死亡者数も含まれていると思われます。この悲運に見舞われた人々の追悼法要は、開教間もない対江説教所(後の眞願寺)により執り行われました。
 説教所開設に奔走した移民共救組合の上野正代表は、彼等の総墓碑を建立するため、明治20年8月9日、北海道御巡教中の本願寺門主明如上人に、追悼碑のご染筆の陳情をいたしました。また、この折には説教所の寺院への引き直しについても要請をいたしております。
 明治22年に眞願寺と寺号公称された境内に、翌年
乘佛本願生彼國(じようぶつほんがんしようひこく)』
の碑が建立されたのであります。この刻まれた七文字の出典は、善導大師の『往生礼讃』日没讃の「佛の本願に乗じて彼の国に生ぜん」にあります。
なお、碑の裏面には当時の西本願寺北海道出張所長安藤龍暁師の撰述した文が、佐久間慶太郎氏の書で次のように刻まれております。

逝者、如斯、夫樺太人之移住、於此地以来、長逝者三百数十名、嗚呼哀哉、夫生者必死普率雖広豈有一人免死者哉、況生命之危、花露風燈不啻茲共救社長上野正君、欲為前後死者、有縁無縁三界万霊、建碑以表追慕之意矣、会明治二十年八月、本願寺法主飛錫、於此地正君所願法主、法主即題乗仏本願生彼国之七文字与之、今年十一月龍暁巡遊之際、正君需記其因、由因書之碑、陰如此
  明治二十三年十一月
    本願寺北海道出張所長 安藤龍暁謹書
        佐久間慶太郎拝書
その後、眞願寺は江別地区の現在地に移りましたが、この碑も同時に移設されました。
 明治31年のことであります。
長い間、江別の地にあった碑でありましたが、明治37年の庫裏の改修を機に、アイヌの人々の埋葬の地である対雁に移設され現在に至っております。
なお、昭和54年からは欠かすことなく、毎年『対雁の碑』の前で、法要が行われております。

境内の公孫樹 樹齢100年余

ご本山西本願寺の御影堂門を入ってすぐに、樹齢350年以上といわれる横に広がる大木が目に入ります。
普通は天に高くそびえるのに対して、まるで反対なので、古くから『逆さ公孫樹』の名で親しまれています。1788(天明8)年の「天明の火災」で、湯気のように水を噴いて建物を守ったというので『水噴き公孫樹』の別名もあります。

ところで、当眞願寺の境内にも公孫樹の大木があり、門徒の皆様にも親しまれております。そびえ立つ大木を見上げるたびに、いつ頃、誰の手によって植えられたものかと、そんな思いを常々抱き続けていたものであります。眞願寺の公孫樹
この公孫樹は平成13年2月5日江別市保存樹木に指定されたのでありますが、樹高18メートル、直径70センチ、樹齢90年と推定され、「同種では市内で最も大きいと思われ、樹容が優れている」という理由からであります。
公孫樹の葉は秋になると黄葉するのが普通ですが、この公孫樹の葉は緑を保ったまま葉を散らせる特異性があります。深い興味と、さらには畏敬の念さえ抱かずにはおれません。

しかし、この公孫樹の来歴などについては長い間不明でありましたが、たまたま当寺佛教婦人会結成90周年記念誌を発行するために、昔のことをよく知っておられる谷山初枝様、土蔵つや様、進藤トキ様をお招きして『昔のお話を聞く会』を開き、大変有意義な集いとなりました。
眞願寺の公孫樹
その折りのことであります。谷山様の「父が馬車に積んで寺へ運んだ」という幼時の記憶を語られたのであります。当時の状況や事情などから、ほぼ正確な裏付けであるとして、記念誌『慈悲の友』に掲載したのであります。
あれから10年近くが経過し、すでに谷山様も土蔵様もお浄土にご往生されましたが、風にそよぐ公孫樹の大木は、私たちを温かく見つめ続けております。私達が集う眞願寺からお念佛の声が途絶えることのないよう、見守り続けてほしいものだと願わずにはおれません。

画像と書状

眞願寺で元旦会に奉献される三幅と明如上人画像(左から3番目が明如上人)
尚、明如上人画像は明治36年以降に下付されたものです。

西本願寺による北海道開教の歴史は、第20代廣如上人の時代を黎明期とすれば、第21代明如上人の明治の初期が、本格的な開教の夜明けであります。

眞願寺は明治17(1884)年、当時の札幌郡対雁村に本願寺札幌別院が開設した対江説教所を起源としております。

明如上人が北海道の地に第一歩を印したのは、明治20(1887)年であります。各地を巡教した後、札幌別院で最初の陳情を受けられたのが、共救社社長上野正氏によるものであります。

共救社とは樺太アイヌの人びとを世話するために設立された任意の団体であります。陳情の第一はコレラや天然痘で死去された樺太アイヌの人々の追悼碑の碑文ご染筆の要請であり、第二は対江説教所の寺院への引き直しであります。

追悼碑につきましては、明如上人ご染筆の『乘佛本願生彼國』と刻まれた碑が、対雁の地に建立されました。

対江説教所の寺院への引き直しにつきましては、明治22年5月28日、眞願寺として認められ、現在にいたっております。その年の12月14日、三幅の画像が下付されました。下の写真にある『上宮太子尊形』『三朝髙図像』『本願寺前住職廣如画像』と、その書状であります。

ところで、平成20年9月27日に修行された当寺親鸞聖人750回大遠忌法要の折の導師は、大阪府八尾市顕証寺ご住職近松照俊師でありました。顕証寺は蓮如上人の開基、本願寺連枝の寺でもあります。廣如上人は、この寺の住職でありましたが、第20代門主となられた方であります。また、第21代門主となられた明如上人は、ご子息でもあります。

近松師は、当寺本堂余間に掲げられている廣如上人・明如上人の御前に「深い因縁を覚えます」と、述懐なされていたそうですが、ただただ深い縁(えにし)と、感謝の思いに掌を合わせるのみです。


本願寺から下付された三幅の書状

梵鐘

梵鐘

雪の境内に篝(かがり)火(び)が焚かれ、沢山の人たちが見上げるなか、ひとりひとりが鐘楼堂に上がり、思いをこめて鐘を撞く。そして、除夜会の鐘が十方に響き渡ります。なんとも感動的な場面ではありませんか。

ところで、梵鐘は別名「集会鐘」とも言われ、法要や儀式を開始するに先立ってこれを撞き、参集の合図をします。撞き方には決まりがありまして、打数は10回、各間隔をゆっくり空けて、余音がかすかになってから次を撞き、最後の一打は間隔を少し早めに撞きます。また、出棺の折りにも撞かせていただいております。

お寺の鐘の音には、童謡などにも出てくるような、どこか牧歌的で、郷愁を誘う安らぎを覚える人もおるのではないかと思います。しかし、そんな梵鐘にも戦時中の哀しくも、いまわしい記憶が秘められているのです。

ときの政府は戦争の激化による資源欠乏を解決すべく、昭和17年5月に金属回収に関する指令を出し、寺院等に対しては、梵鐘・佛具等の供出を命じたのであります。そして、供出された金属類は兵器となり、多くの人を傷つけ、命まで奪う武器となったのです。これほど残酷で悲しいことがあるでしょうか。

かくして、梵鐘のない鐘楼堂が20年近くも続いたのでありますが、昭和36年からの伽藍修復や境内整備の一環として、梵鐘の復活が実現したのであります。その喜びはがいかばかりであったか、当寺の門信徒の方々の歓喜の声が、今でも耳に聞こえてくるようであります。

梵鐘には、次のような刻銘があります。

南 無 阿 彌 陀 佛
浄 土 真 宗 本 願 寺 派
廣 間 山 眞 願 寺
第 三 世
願主 石 堂 廓 悟
施主 門 信 徒 一 同
昭和三十六年八月
黄綬褒章拜受
高岡市鑄物師老子次右爲
正覺大音響流十方

梵鐘

なお、この年には本堂の改修がなされ、従来の畳敷きからコンクリート床、椅子席に改修され、本堂と庫裡との間に控室を設け、渡り廊下付属施設の階上に住居を新築しました。また、納骨堂の一期工事も完成、境内も門信徒多数の方々の献木等により、すべてが完成したのであります。