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特集 親鸞聖人(5回連載) 第5回 帰洛と晩年 鈴木彰

貞永元年(1232)60歳の頃、旅仕度をととのえた聖人は、ついに稲田の草庵を後にしました。それは密やかな出立でありました。聖人は『教行信証』の稿本を葛籠(つづらかご)に入れて、背負っていかれたのかもしれません。

途中、有縁の人びとへの最後の説法などで、京都の土を踏まれたのは嘉禎元年(1235)頃、長い長い旅からやっと京都に戻って来られました。「聖人、故郷に帰りて往事を思ふに年々歳々夢のごとし、幻のごとし・・・」と、『御伝鈔』に記されておりますが、63歳の仲秋の頃であったと思われます。

そして、帰京後は旧佛教との摩擦を回避して、ひたすら著作に励まれたのであります。『教行信証』をはじめとして、沢山の著述を通して伝導されたのでありますが、特に現在も親しまれている、沢山の和讃を詠みあげられているのです。(注1)

聖人の帰洛後、東国の人々には文書伝道のほか、縁あって上京した者には面談などされたこともありましたが、念佛を曲解する者などもあらわれて、信徒間に動揺が生じ、混乱をきわめました。
かくして聖人は意義是正のために息男善鸞を自分の名代として、東国へ派遣されたのであります。

 しかし、他力信心を否定して、異議を唱える東国教団の信心を崩壊させた善鸞を義絶し、その旨を「いまおやとおもふことあるべからず・・・かなしきことなり」と書状に披露されておるのであります。最も身近な実子に正しい信心を伝えることのできなかった悲歎のことばであります。このとき聖人はすでに84歳の高齢に達しておりました。「火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念佛のみぞまことにおわします」と聖人の述懐のひとつであります。

恵信尼様は、すでにそれより以前聖人82歳のときに、越後に行かれ、以来お2人は今生でお会いすることはありませんでした。

晩年の聖人が到達された信心の境地が、自然法爾(じねんほうに)でありますが、凡夫の生きる道として一切の分別やはからいを捨てて「自然(じねん)」のことわりのままに生きるべきことが説かれております、他力信心の極致であります。このことを聖人は「義なきを義とす」(注2)といわれました。

この頃「目も見えず候」と書簡に記されておりますが、88歳で著わされた『阿弥陀如来名号徳』を最後に、弘長2年(1262)11月28日(現行暦1月16日)90歳にて往生されたのであります。

『御伝鈔』には「弘長二歳任仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。それよりこのかた、口に世事をまじえず、ただ佛恩のふかきことをのぶ。声に予言をあらはさず、もっぱら称名たゆることなし。しかうしておなじき第八日午時頃北面右脇に臥したまひて、つひに念佛の息たえをはりぬ」と記されております。

注記

  (注1)『浄土和讃』は、阿弥陀佛の浄土を讃えたものであり「弥陀成佛のこのかたは」などの正信偈六首引は、このなかの和讃です。
『高僧和讃』は七高僧の教理と徳を賞賛し、共に聖人76歳のときの著述であります。また『正像末和讃』は聖人85歳のときに原稿を作成されましたが、このとき善鸞事件の直後のあたり、末法への悲歎が深く、その心境をうかがう上でも注目すべきものがあります。
なお、この他にも多数の和讃の述作があります。
  (注2)前の義は「はからい」のこと、後の義は「本義」のこと。すなわち本願他力とは、はからいを交えないことが、本来の意義すなわち正しい意味でよいと言うこと。

執筆を終って

 

もともと親鸞様のご生涯などを記す能力のない者が、筆を持ったものですから、今はただみ教えの一端なりとも、お伝えできたかどうか、そのことのみが心の中を去来いたすのであります。

私の生まれたのは、親鸞様ゆかりの稲田の近在でありますが、信薄き青年時代を過ごしてしまいました。しかし、この土地には親鸞様の史実や伝説綯い交ぜて多くのことが語り継がれており、そのことが親鸞様に近づこうとする潜在的なものとなったのではと、今はそのように考えております。連載についての力不足をお詫びして筆を擱かせていただきます。

合  掌

参考文献

 

「浄土真宗聖典」
「真宗辞典」
「親鸞」笠原一男
「親鸞入門」佐藤正英
「関東の親鸞伝承」石島滴水
「真宗史」福間光超、星野元貞
「親鸞」真宗教団連合、その他

特集 親鸞聖人(5回連載)第4回 東国の教化 鈴木彰

健保2(1214)年の頃、聖人は流罪の地を離れ、妻子と共に常陸国笠間郡稲田郷(現茨城県笠間市)をめざして旅立ちました。ときに聖人42歳でありました。

移住の動機や移住先に常陸国を選ばれた理由は、何だったのだろうか。いろいろな説がありますが、東国への専修念佛の布教教化活動と共に、『教行信証』の述作にあったことだけは確かだと思います。

稲田郷のある笠間盆地は、低いならだかな起伏の山々に囲まれているので、地勢が京都を思わせると言われます。

稲田郷での聖人の活動の一部ではありますが、『御絵伝』(注1)は次のように記しております。「笠間郡稲田郷といふところに隠居し給ふ。幽栖を占むといえども道俗跡をたづね、蓬戸を閉づといえども貴賤ちまたに溢る」と。僧侶や在俗の篤信者が、稲田へ次々と聖人のあとを慕って訪れて来たという。草庵の近辺には階層の差別なく、多くの人々が集まり、聖人が姿をみせ、説法をしてくれるのを待ったというのです。

東国には、次のような伝承もあります。この地方の山伏でありました弁円が、聖人を佛法の怨敵として憎み、隙あらば殺害しようと狙っておりました。

聖人はたびたび板敷山を経て鹿島神宮に往復しておりましたので、この山で待ち伏せし殺害しょうとしたのであります。しかし、ことごとく出会うことができず、とうとう聖人の住む草庵に乗り込んでゆきました。
少しのためらいもなく、無造作に会って、耳を傾ける聖人の言葉に多弁さはなく、特にさわやかさはなくとも、それでも弁円の心は、少しずつ動かされてゆきました。
そして、聖人の心の底からの言葉に、殺害しようとする心も失せて、弁円はその場で弓矢を折り、刀や杖を捨てて、名を明法と改め聖人の門弟となったというのです。

 
(注2)

また、聖人は足繁く東国の各地に出向いているのですが、なかでも奇異とさえ思えるほど、たびたび鹿島神宮へ通っているのです。稲田から鹿島への行程は、ほぼ80キロほどあり現在でもこの地域一帯には、聖人にかかわる史実・伝承ない交ぜて多くのことが語り継がれております。
鹿島神宮収蔵庫は、中国からもたらされた文物、書籍の宝庫であり、とりわけ宋版の『一切経』(注3)が奉納されていたと言うことで納得がいくと思います。

『一切経』は佛教教典全集とも言うべきものであり、『教行信証』著述の構想をすすめるうえでも、執筆にあたり適切な引文を選ぶうえでも、最新版のこの教典全集と、あまたの典籍が必要だったのではと思われます。『教行信証』は、この地で書きはじめられ、帰洛の後に完成されたと言われます。

注記

  (注1)親鸞聖人のご生涯を描き、報恩講中に内陣余間に掛けられ、『御伝鈔』が拝読されます。
  (注2)板敷山弁円済慶の図が、 当寺本堂の正面入り口付近に 掲げられております。
  (注3)〈一切の経典〉の意味で、経・律・論はもとより、その他の佛教文献を含めた佛典の総称。

続く
◎参考資料等は全5回終了後に掲載させていただきます。

特集 親鸞聖人(5回連載)第3回 専修念佛弾圧と流罪 鈴木彰

法然上人の専修念佛の教えは、京都を中心に年毎に信者を拡大していきました。これにともなって旧佛教教団である奈良の興福寺や、比叡山延暦寺からの攻撃が始まり、凶暴な嵐は日に日に吹きまくり、念佛を禁止せよという訴えが朝廷にに出されたのであります。

出家佛教に根本的意義を認めない教えと、国家繁栄の祈願などを否定する専修念佛を「亡国の音」として、旧佛教教団が、朝廷に対して弾圧の論理を提供したのであります。聖人が法然上人のもとに入ってより、わずか三年目、三十二歳の秋でありました。

承元元年(1207)、ついに朝廷は法然教団に対する弾圧を開始しました。いわゆる承元法難であります。専修念佛禁止と法然上人や親鸞聖人など7名の流罪と、4名の死罪が決定したのであります。

法然上人は土佐へ、聖人は藤井善信という流人としての名を与えられ、越後(現在の新潟県)へと、それぞれ配流されたのであります。ときに齢三十五歳でありました。

『親鸞聖人上陸の地』居多ヶ浜(こたがはま)から配所へと歩まれたものと思われますが、配所では流刑者に課せられている掟どおり、監視の下で、荒地の開墾に自活の道を見出さねばならなかったものと思われます。

しかし決して自らを間違いとして認められたのではありませんし、いかなる政治的抑圧にも屈することはありませんでした。『教行信証』(注1)

後序には、次のように記されております。専修念佛教団に弾圧を加えた主上(天皇)と臣下(その家来の政治家たち)を、「法に背き義に違し」た理不尽者と決めつけ、自分たちの佛教が、国家の求めているような宗教ではないことを認識し、『非僧非俗』すなわち僧にあらず、俗にあらずと言っているのであります。

もはや国家権力を至上のものとする僧でもなければ、俗でもないという明確な立場を主張されたのであります。

続く
◎参考資料等は全5回終了後に掲載させていただきます。

注記

  (注1)浄土真宗の立教開宗の根本聖典であり、念佛の要文を集め、ご自分の解釈を入れ、体系的に叙述しています。無量寿経を唯一の根本聖典とし、教・行・信・証・真佛土・化身土の構成で、この世での往生成佛を説いています。(正信偈もこの中の行巻末に書かれています)

特集 親鸞聖人(5回連載)第2回 専修念佛への帰入 鈴木彰

ほとんど自らのことを語ることのなかった宗祖親鸞聖人の生涯や、信仰・恩想などを明らかにしたのは「恵心尼消息」(注1)であります。

ここには、比叡山で過ごされた青年期の20年を「殿(親鸞聖人)が比叡山で堂僧をつとめおいでになりました・・・」と記されております。 堂僧とは、比叡山横川の常行堂で常行三昧を修する僧であったと考えられます。

平安時代も後期になると、あの純粋な佛法者最澄の創建になる比叡山も、さまざまな問題を抱えていたようでありましたが、宗祖はひたすら佛の悟りを求めて、それこそ夜を徹して、教典を読み血の滲むような修行に専念されておられました。

しかし、真摯に佛道に邁進すればするほど、聖道自力の教えがどんなに難しいものであり、もはやこの比叡山には、悩みを解決してくれる教えも人も、見あたらぬことを知らされるのであります。


信行両座(しんぎょうりょうざ)

またこの消息には「殿が比叡山をおりられ、六角堂(注2)に百日間おこもりになり、後世(注3)のたすかるように祈念あそばされましたら、95日目の明け方、夢の中で聖徳太子が偈文(注4)を唱えられて、後世の問題を解決する道をお示し下さいました」と記されております。

20年間親しんだ比叡山を、宗祖は降りられたのです。その生活を捨てたのです。29歳の春でありました。しきりに心をよぎりゆくものは、噂に聞く吉水の法然房源空上人のことでありました。

そして、その夜明けに六角堂を出て、吉水の草庵で、法然上人に遇われるのであります。「弥陀の本願の根本は老少も、善悪も一切問わない。なぜなら罪深き、さまざまな煩悩に苦しみ、悩む人々こそ、救われ、解放されなければならない人だからです」と聞かされ、さらに吉水に百日通って聞法を続けたのであります。

その後の法然上人との6年間(注5)は、宗祖の生涯の中でもっとも充実し、「遇うべきもの(真実)に遇った」というよろこびの時であったと考えられます。

法然上人の門弟は、僧侶だけでも300人を越えていたと言いますが、思想の継続者として最も信頼され、心を許した限られた門弟のうちの一人であったとおもわれます。

そのことは、師の主著『選択本願念佛集』(注6)の書写を許されたことでも分かります。このことについて宗祖は『教行信証』(注7)後序に次のように記しております。

「・・・この書を拝見し写し取ることができた門弟は、きわめて少ない」との悦びを記されております。
山を降りたのち、宗祖は妻帯し、阿弥陀佛の教えによる救済と成佛の道をひたすら歩むことになります。
法然上人の説く専修念佛への帰入でした。そして、このよき人との邂逅が、生涯の重要な機縁となったことは、いうまでもありません。

続く
◎参考資料等は全5回終了後に掲載させていただきます。

注記

(注1)1921年(大正10)西本願寺より発見された宗祖の内室恵信尼様から、京都の末娘覚信尼様に書き送られた手紙。
(注2)聖徳太子開創の天台宗頂法寺。本堂は如意輪観音、本堂が六角形なので、六角堂と俗称されます。
(注3)死して後に来る世界。すなわち次の生涯を言います。
(注4)佛の教えや佛・菩薩の徳をたたえるのに詩句の体裁でのべたもの。
(注5)師法然上人のもとに通ったのは1201年(建仁元)から、35歳で専修念佛禁止の法難に遭う1207年(建永2)2月までの丸6年間続けられました。
(注6)法然上人著、浄土三部経の経文を引用し、それに対する善導の解釈を引き、さらに上人自身の考えをのべるという形をとっております。末法の世においては称名念佛だけが相応する教えであり、雑行を投げ捨てて念佛の正行に帰入すべきことが説かれております。
(注7)宗祖親鸞聖人の著作、浄土真宗の立教開宗の根本聖典、東国在往時代に一応まとまり、宗祖が往生なされるまで補訂しつづけた永遠に未定の書とも言われます。念佛の要文を集め、ご自分の解釈も入れ、体系的に叙述しています。無量寿経を唯一の根本聖典とし、教・行・信・証・真佛土・化身土の構成で、この世での往生成佛を説いております。

特集 親鸞聖人(5回連載)第1回 誕生と出家 鈴木彰

はじめに

親鸞聖人750回大遠忌法要が、平成23(2011)年から厳修されます。大遠忌は念佛再興の動機です。「本願を信じ(信)、念佛をもうさば(行)、佛になる(証)」という宗祖のみ教えを伝えていきたいものです。
人間砂漠を旅する私たちの確かな先達=案内人である宗祖の波乱に富んだ生涯を点描して、そのご苦労をしのぶと共に、人間の生き方を

  1. 聖人の誕生と出家(このページ)
  2. 専修念佛への帰入
  3. 弾圧と流罪
  4. 東国教化
  5. 帰洛と晩年

という、以上5回の連載によって、学ばせていただきたいと思います。

親鸞聖人とのその時代

宗祖親鸞聖人は承安3(1173)年にご誕生、弘長2(1262)年のご往生ですから、90年の生涯をおくられたことになります。それは平家政権の確立と崩壊、鎌倉幕府の成立といった武家台頭の時期にあたり、まさに社会の激動期でもありました。

いっぽう我が国は、永承7(1052)年から末法の世に入ったことになっていました。釈迦涅槃の後、世の中が正法・像法各1000年を経て末法の時代となり、佛教は教えだけが残り、人がいかに修行して悟りを得ようとしても、とても不可能な時代だというのです。頻発する戦乱、凶作、疫病、天変地異と、社会はますます混迷の度を深め、人びとは生きる方向を見失っていきました。

この末法の世で救われていく教えを模索し、それぞれの教義を確立したのが、鎌倉佛教といわれる浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、時宗(一遍)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)、日蓮宗(日蓮)などです。

なかでも宗祖親鸞聖人は、人間の姿を直視され、浄土真宗の核心である「絶対他力」(注1)や、「信心正因」(注2)「悪人正機」(注3)などの教えを導き出されたのであります。

親鸞聖人の誕生と出家


親鸞聖人  鏡御影(かがみのごえい)

宗祖親鸞聖人は京都日野の里に、日野有範の子としてお生まれになりましたが、沢山の著作のなかでも、自らのことを語ることはありませんでした。したがって、いつお生まれになられたかということは、往生の年次と年齢からの逆算で知るよりほかにありません。また、門弟たちに写し与えた聖教には、書写年月とその折りの宗祖自身の年齢が記されておりますので、承安3年4月1日(現行暦5月21日)のお生まれであることが分かるのであります。

不遇な貴族であったという父有範でありますが、生母吉光女 についても、宗祖が8歳になられるときに死別なされたと伝えられておりますが、史実にはあきらかではありません。史実的には今なおはっきりしないことも多くありますが、私たちにとって大切なことは、その人が、どこで、どんな人の子として生まれたかというよりも、何のために、どのような道を歩まれた人であったのかと言うことだと思います。

9歳の幼い宗祖が得度 した養和元(1181)年というのは、鴨長明が『方丈記』に京都の飢饉を記した年であります。

この年、叔父範綱にともなわれ、東山の青蓮院をたずね、慈円僧正の坊舎で得度の式を受けられ、名前を範宴 とあらためられました。しかし、何故に出家なされたのか、その動機については明らかではありません。

得度というのは、在家 の人が髪を剃って出家となる儀式でありますが、有名な伝説があります。その日はすでに夜が遅かったので、慈円僧正が「明日にしたら」という言葉に、幼い宗祖は次のような歌を詠み、その夜のうちに剃髪なされたといわれます。

明日ありとおもう心のあだ桜夜半にあらしの吹かぬもかは

「わずか9歳の少年が…」と言うひともおりますが、沢山の人の中には、たとえ少年であっても、感受性の強い人もおります。この少年も人一倍感受性が強く、深く人生を見つめる眼をもっていた人だと思います。

出家の動機を単純に「これ」と指摘することは困難ですが、血で血を洗う人間のみにくさ、天災地変の多かったなかで、有形無形、内的外的のさまざまな要因があったことと思われます。

「人の世はなぜこのようであるのか。人はこの世をいかに生くべきであるか。人間に生まれてきたことのほんとうの意味はどこにあるのか。人はこの世をいかに生くべきであるか。人間に生まれてきたことのほんとうの意味はどこにあるのか」という、人間それ自体の存在の意義をたずねることにあったことはまちがいないと思います。

宗祖は出家すると比叡山に登り、ここで少年・青年期の20年間をすごされたのであります。

続く
◎参考資料等は全5回終了後に掲載させていただきます。

注記

  (注1)阿弥陀佛の本願のはたらきをさし、信心を得ること、種々の行いも、すべて佛の願力によるとする。他人の力と解するのは誤りで、いわゆる自力を支え、自力の根源をなす超越的な力を意味します。
  (注2)称名を正因とする邪説に対し、浄土に往生する正しい因は信心であるということで、他力信心 における根本義。
  (注3)阿弥陀佛の本願は、善人(善行をつむ人)よりも悪人(煩悩具足の人)の救済にあり、悪人に対して救いの手をさしのべることこそ、阿弥陀佛の意志であるとする。