法務員さんコーナー」カテゴリーアーカイブ

皆様との『ご縁』のなかで

法務員 釋拓彌(竹澤拓弥)

 新年に入り何かとバタバタしている内にお正月も過ぎ、御正忌法要やお寺や壮年会・婦人会の総会・新年会があり、あっという間に2月も中旬を過ぎてしまいました。
そうやって流れるようにまた気付けば年の瀬になっているのかと考えると、それでは寂しいなと思いつつ,少し忙しくなってくるとまたその事を忘れてしまう自分がいます。
 もうすぐ一年になりますが、去年の3月に壮年会の創立20周年がありその祝賀会に出席させて頂き、皆さんとお酒を飲み色々なお話も聞かせていただきとても楽しい時間を過ごさせて頂きました。私がお寺に奉職させていただいてからすぐに創立10周年がありました。あれからもう10年かと思い返すことです。その間に結婚し子供も生まれました。
 今年は昨年から奉職させていただいている弟と一緒に新年会に参加させて頂きました。まさか弟と一緒に参加するとは1年前には思ってもみませんでした。そして今年の12月には婦人会の創立100周年があります。90周年の時は私が奉職する前でしたが、記念誌に載っている法要や式典の写真をみると、たくさんの参詣者や来賓の方々が写っておりました。その中に私の父が写っており、しかも式典で挨拶をしている写真もありました。私は父が来ている事も皆さんの前で挨拶をしていることも知りませんでしたので、写真を見ながらそれを息子の私が見ているという何とも不思議な気持ちと色々なご縁を感じました。
 また、壮年会や婦人会の方々には日頃からお世話になっており、法要の会場の準備を手伝っていただいたり、お斉を作っていただいたり、境内の花植など沢山のことをしていただいております。
お寺での法要も壮年会や婦人会の方達がいることで一緒に準備などをしていても大変心強く思います。
眞願寺に限らずお寺というのは、そういった方々のご尽力がなければ成り立っていかないものだと思います。何かあった時には快く手伝いに来てくださいます。以前壮年会の方々とお話をしている時にいつもお手伝いありがとうございますと私が言うと、「自分のために来てるんだから、お寺に来たくて来てるんだから」とおっしゃいました、そう思っていただけることは、なにより有り難いことです。また、そう思っていただけるお寺で有り続けていく力に微力ですが今後も努力しなければならないなと改めて思いました。
 そんなことを思わせていただける壮年会と婦人会の節目に立ち会えることは、とても嬉しいことであります。12月の婦人会の記念式典も楽しみにしています。日常の生活において、気付かないうちに誰かのお世話になっているということは皆さんにもあることじゃないかと思います。当たり前だと思い知らず知らず会わせて頂いているご縁に気付き、そのご縁に感謝出来る毎日を過ごしたいものです。

合 掌

ほとけのこども

法務員 稲垣 心平

 実家から古い写真が出てきました。28-02
 29年前母の膝の上に座り、念珠を食べている私。きっと何かの法要だったのでしょう。周りには式章をかけ、お念珠を手にしたご門徒の方々が座っていました。
 4,272g で生まれ、子供の頃から甘えっ子できかん坊だったそうです。
 そんな私も父となり、昨年第1子を授かりました。嬉しいことがあればお祝いをします。
お寺でのお祝いの一つに「初参式」があります。赤ちゃんが初めてお寺に参るということですが、お父さん、お母さん、またはおじいちゃん、おばあちゃんの誕生として初めて寺に参るという意味もあり、『家族みんな』の初参りであります。
 今年の四月、眞願寺にて初参式を受けさせていただきました。なんと今年は眞願寺史上初、私の家族、一組だけでした。
 御門徒の方々の温かいまなざしに見守られながら、手を合わさせていただいたことであります。ふと、娘の姿を見ると、いただいた子供用の念珠をあむあむと食べていました。29年前の私の姿がそこにありました。
 胸がジーンと熱くなりました。28-03

一語一味 『道』

 ある休日。何気なく外を散歩していると、見ず知らずの一人の男性とすれ違う。
 しばらくして、ふと、思う。私はこれまで一体何人の人とすれ違ってきたのだろう。
 同じ道の上を歩きながら、私は私の進行方向、彼は彼の進行方向へと進んでいく。
 見えている景色は互いに違うはずだ。じゃあ、私と同じ進行方向の人は?それもきっと、同じ道の上を歩きながら見えているものは違うのだろう。
 先日も又、家庭内での殺人事件がテレビで報道された。相次ぐ家庭内暴力、虐待、殺人。子供か、親か、はたまた祖父母か。いずれにしても、ひとつ屋根の下で起こる惨劇を、朝一番のニュースで観たくはないというのが本音である。何がきっかけで、何故そこまでやらねばならなかったのか。誰もがそう思うだろう。
 佛教は、私が佛に成る教えである。悟りへの道、と言えば聞こえは良いが、それだけではなんだか、私とは別世界の話しにも聞こえてくる。しかし、「六道」という世界があることを知る。
思い通りにならず、腹を立て、殺し合う地獄の道。あれも欲しい、これも欲しい、人の物さえも欲しくなる餓鬼の道。自分さえよけりゃ何をしても良い、他人のことは知らんという畜生の道。昨日までは仲間、今日からは敵という修羅の道。人の話しを聞いているようで、実は自分が一番正しいと思い込んでいる人の道。一時的に舞い上がって喜ぶが、現実に戻ると途端に落ち込んでしまう天の道。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天。
 私は、いま一体どの道を歩んでいるのだろうか。連日報道される痛ましい事件や呆れる不祥事の数々。気が付くと、私が次に踏み出す一歩前に、すでに六道交差点が入り乱れている。知らず知らずのうちに、道に迷う。
 迷子になれば、親に助けられる。しかし今、大人の迷子が増えている。その迷子を一体誰が見つけて誰が手を差し伸べてくれるのだろうか。親鸞聖人は750 年の時を越えて、「道はここにありますぞ」と、姿を変えて私の前にお出まし下さる。その姿は、お佛壇のお荘厳となり、正信偈の読経となり、お念佛の声となる。 手を合わせる生活の中に、如来大悲の確かなぬくもりを感じるのである。

法務員 稻垣心平

17-01