お佛壇のあるくらし」カテゴリーアーカイブ

お佛壇のあるくらし5

23-1白寿のひと 飛鳥寛栗(あすかかんりつ)さん
 この人の生き方こそ、標題にもっとも相応しいのではないかと、今回は視点を変えて、ひとりの佛教者をご紹介いたしたいと思います。
 この人の母方の祖父は、西南戦争で西郷軍に捕えらえられる寸前、命からがら逃げた人だということですが、その詳細を知ることがなかったので、資料を集めて本にすることができれば有難いことだと申しております。
 この人とは、今年白寿を迎える99歳の飛鳥寛栗さんです。佛教音楽研究家で、富山県善興寺前住職であります。今のところ耳は遠くなりましたが、足腰はまだ大丈夫で自由時間はたっぷりあるから、出版にこぎつけたいと、力づよく申しております。
 飛鳥寛栗さんについての筆者の知るところは、毎回送られてくる善興寺門信徒会会報『可聞(かもん)』に載る文章によってのみでありますが、当寺了正住職の母方の大叔父にあたられる方です。『可聞』には飛鳥寛栗さんの連載記事「老(ろう)蛙(あ)のつぶやき」がありますが、読まずにはおれない滋味あふれる文章であります。
 ちなみに、各寺院から送られてくる寺報などは、他の図書と共に玄関を入って直ぐの図書棚に並べてありますので、ご利用いただければと思います。
 飛鳥寛栗さんは、学生時代から旺盛活発に佛教音楽活動や、音楽関係資料を集めておりましたが、本格的な佛教音楽の研究を始めたのは、大病を患った60代過ぎてからだと言っています。その後、数々の著作を出版し、さらに収集した佛教音楽に関する膨大な資料、楽譜を基に幕末から140年にわたる編年表『日本仏教洋楽資料年表』を編さんし、93歳の時に出版されました。このことによって、仏教伝道協会から仏教伝道功労賞が贈られました。
 この夏は白寿を迎えられる今も新たな出版に向けて資料収集を進めているということです。飛鳥寛栗さんは、昭和59年に癌でぼうこうの全摘手術を受けましたので、余生は資料の整理と系統的な研究に生かそうと始めたところ、「余生」が40年も続いたのは思いがけぬことであると記しております。
 わが国の近代音楽史や作曲家研究では、「仏教音楽」の資料がほとんどなかったのが、資料収集を長く続けさせた理由だと記されておりますが、飛鳥寛栗さんのあくなき使命感と、たぎる情熱であり、継続する力であると、賛辞を惜しむわけにはいきません。
 今までに集めた資料は段ボール箱に30個以上になりましたが、今後は専門家の手で活用される方がとの思いから、宗門校でもあり音楽学部をもつ相愛大学に寄贈されたそうです。
 飛鳥寛栗さんは平成23年に奥様に先立たれて、初めて自らの老いと死を意識されたと言います。そして、死の恐れも悲しみも本当の深さを知らなかったのに、分かったつもりで法話をしてきたとは、かえりみて恥ずかしく申し訳ないと記しております。この述懐をいかに受けとりますか。ただただお念佛申し上げるほかにありません。
 (平成27年2月20日毎日新聞と『可聞』各号を参考に記事を書きました。)

お佛壇のあるくらし4 佛壇と神棚

18-01 家を離れた学生生活の頃からだと思いますが、久しぶりに古里の家に戻り、佛壇に掌を合わせれば、自分の家に帰ってきたという実感が湧いてきた思い出があります。
 しかし、佛壇の前に坐ったのは、けして自発的な行為などではなく、半ば強制的な祖母の誘導があったればこそなのです。
いま、往時を振り返って祖母の心を思うとき、泣きたいほどの懐かしさと、有難さが心を満たしてゆくものです。
 そして、その記憶の先に、佛壇の前の母の姿を忘れることはありません。娘二人に先立たれ深い悲しみの現実を、母はどう受け止めていたのであろうか。
佛様との対話ができたのであろうか。そんなことを語り合うには、余りにも若い私であり、遠くから見つめるだけでありました。
 今回は佛壇(佛教)と神棚(神道)について考えてみたいと思います。
 こんな歌を最近雑誌で読みました。「灯明をか細く点す神棚を視線の先に仏間に坐る」訪れた家の佛間に坐り、ふと隣の部屋の高い所に目をやると、白木造りの神棚に灯明が点されていたという意味の歌だと思います。
 真宗の家庭内風景ではないと思いますが、戦前の佛教徒の家庭であれば、どこでも見られた普通の情景でありました。かつて北関東の農村などでは、佛教宗派に関係なく、佛壇と神棚のほかに、小さな祠(屋敷神)が、敷地の一角などに建てられていたものです。
 そもそも、日本人固有の宗教は、祖先崇拝であり霊魂信仰でありました。そんな風土に佛教の渡来(六世紀初めの頃)があり、幾度かの衝突や摩擦があり、徐々に日本人の宗教意識を変化させていったものです。その変化の具体的なあらわれ方が、神佛習合の思想でありました。日本固有の神の信仰と佛教信仰とを折衷(両方のよい点を合わせ取り入れる)した考え方でありました。18-02
 奈良時代に始まるこの考え方は、平安時代に入ると本地垂迹説として説かれるようになっていくのです。日本の神々は佛が衆生救済(生きとし生きる一切の人や動植物を救う)のために姿を変えて現れたもので、神佛は同体であるという考え方です。例えば八幡様の本地は阿弥陀佛であるとか、熊野権現の本地は観音菩薩であるなどという考え方であります。ちなみに権現の権には、仮の意味があるそうです。かつては寺の境内に社があり、一軒の家に佛壇と神棚があっても、けして矛盾するものではないという考え方が、定着していったものです。
 その後画期的な宗教の改革の時代を迎えるのは、鎌倉の世に入ってからのことです。親鸞聖人などによって、佛教は単なる学問や知識ではなく、生死出離(生死を離れた悟りの世界)の問題を自己自身の問題であるとして取り組み、佛教が本当に日本人のものになる、そんな輝かしい時代を迎えたわけです。
 しかし、その後は佛教の土着化や俗信化が急速にすすみます。江戸時代の檀家制度や、明治に入ってからの廃佛毀釈(佛教排撃運動、各地で寺院や佛像の破壊や弾圧など)や、国家神道の強制などによって、日本人の宗教意識は大きく歪められていきました。
 戦後、信教の自由の時代を迎えるわけですが、われわれ日本人の精神風土には、相変わらず「神佛習合」の残滓(のこりかす)を取り除けることができない一面があります。そのことが冒頭の歌に表現されているのではないかと思われます。
 多神教(多くの神々を同時に崇拝する宗教)的世界で培われてきた、私たち日本人の宗教意識の根強さも事実でありますが、「弥陀一佛」の浄土真宗の私達の家には佛壇だけがあり、神棚は必要ありません。一神教(キリスト教やイスラム教のように、唯一の神的存在だけを認めて、これを信仰する宗教)では考えられない多神教のわが国の歴史の中から、私達が神棚を必要としない理由を確かめていきたいと思います。

お佛壇のあるくらし3

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 『鶴瓶の家族に乾杯』というテレビ番組を楽しみにしております。落語家・コメディアンの鶴瓶さんが、全国各地の家族に巡り会う心あたたまる番組ですが、好評の理由のひとつは、彼の人柄にあるのではと思われます。がさつに受けとられる外見や言動とは裏腹に、茶目っ気の瞳の奥に含羞(がんしゅう)があります。その内面的なやさしさが、人を引きつけるのかもしれません。
 この番組は、ときに個人の屋内に入り込む場面もあるのですが、ここでの彼の行動が私の心を打つのです。佛壇があれば必ず佛前に正座して礼拝するのであります。なかなか真似のできない行動であり、しかもわざとらしさが微塵(みじん)も感じられず、ごくごく自然の行為なのです。
 彼のそんな自然の姿から見えてくるものは、遠い日本の家庭の原風景かもしれません。彼が育まれた心豊かな家庭であり、ご両親や祖父母の顔さえも浮かんでくるではありませんか。佛壇を中心とした、ほのぼのとした家庭の風景が展開されています。
 佛壇とは、私たちにとってどのような存在なのだろうか。鶴瓶さんの行動によって、深く教えられるものがあります。私たちは真宗門徒としての生き方をめざしておるわけですが、亡き人たちの行かれた浄土をみずからの人生の最終目的地として生きることにあります。「死の帰(き)するところを、生の依(よ)りどころとする」と教えられておりますが、人間はこの世でのいのちが終わると、阿弥陀如来の佛の世界にかえってゆくわけです。この佛の世界が浄土であり、すべて浄土の住人となるわけです。すなわち「俱会一處(くえいっしょ)」の世界です。
 阿弥陀如来も浄土も目に見えるものではありませんから、例えば佛壇のなかの絵像は、本来、目に見えないものを形にあらわしたものです。私たちは、その形を拝み、その形をとおして真実の阿弥陀如来にふれさせていただいているわけです。butudan02
 佛壇を正しく荘厳し、給仕(きゅうじ)をおこたらず続けてゆくことが大切な由縁(ゆえん)であります。しかし「佛壇は亡き先祖をまつる位牌入れではなく」「佛壇は阿弥陀如来を安置するところ」と、理解できる道程(みちのり)は遠いものがあります。昔から「信は荘厳から」という言葉があります。荘厳することによって、いつの間にか真実の教えが身につき、佛壇の持つ深い意義にも目覚めて合掌する日が、必ず来るのではないかと思います。
 鶴瓶家の宗派は知りませんが、佛前の彼の行動には、いつしか心豊かにさせていただいている自分があります。けして篤信の家庭で育てられたわけではありませんが、振り返ってみれば佛壇中心の生活が営まれていたことが思い出されて、胸の熱くなる思いになることであります。