母からのたより

投稿日:2015年3月1日

 母は昭和十二年に東京のお寺で生まれましたが、やがて祖母の実家富山県高岡市のお寺に疎開していました。そして十年前に往生した父は予科練から生き残り終戦をむかえました。喜寿をむかえた母からの便りは、戦後生まれの私にズシンと響くものがありました。皆さんはどんな思いになられるでしょうか。
 次の詩は富山県在住の私のいとこの書いたものです。戦争という非人間的なことでうばわれたことの重さははかりしれません。私たちは憲法九条と共に日本を守り自分の意思を家族に・友人に・若人に伝えていかないと、今も戦禍が広がっている現実が世界にあり、いつなんどき我身にふりかかるやも分かりません。私も七十七年間の人生、今日、七十七歳で戦火のない平和な日本の毎日に感謝しても余りあります。
 一日一日をありがたく頂いていきたいと思います。きょうこ


戦没者叙勲  富樫行慶
僕は いらない
父は大日本帝国主義の歯車に うむをいわせず乗せられ
南シナ海の もくずとなって消えた
いのちはかえらない・・・
母はかえるという
おさない僕は信じた
そとが暗くなるまで
ガラス窓ごしに
かえるはずのない父をまった
その記憶のみが いまでもかえってくる・・・
小学六年
いまだみぬ東京
遺児は靖国神社参拝
靖国には仲間がたくさんあつまっていた
僕らは わけのわからないままに
機械的に じゅんぐりに立ったりすわったりした
白州をしきつめた境内の印象
ねむい疲労
家についてからは御飯もたべずに一日中ねた・・・
家でいちばんカビくさい場所に
手紙のたばをみつけた
戦死した父の手紙
恋愛時代と戦地からの手紙
僕は ふざけはんぶんに朗読する
恋愛時代のを読んだとき
姉たちは おもしろがって母をつつき
母は たたみの目を見るようにうつむいてわらっていた
戦地からのを読んだとき
姉たちは射るような目を僕にそそいだ
その意味に気づき よすべきだった
母は 先を読ませずに泣いた
高校二年の梅雨のしずかな晩のこと
うっとうしい梅雨のめぐってくるごとに思う・・・
あれもこれも
いまは怒りの思い出
いくまん同朋を殺していながら
僕らに あわれみをほどこすというひとびと
血ぬられた日日は わすれない
生きることに精いっぱいであった日日は 売りわたせない
(富山県氷見市光照寺前住職)

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