お佛壇のあるくらし3

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 『鶴瓶の家族に乾杯』というテレビ番組を楽しみにしております。落語家・コメディアンの鶴瓶さんが、全国各地の家族に巡り会う心あたたまる番組ですが、好評の理由のひとつは、彼の人柄にあるのではと思われます。がさつに受けとられる外見や言動とは裏腹に、茶目っ気の瞳の奥に含羞(がんしゅう)があります。その内面的なやさしさが、人を引きつけるのかもしれません。
 この番組は、ときに個人の屋内に入り込む場面もあるのですが、ここでの彼の行動が私の心を打つのです。佛壇があれば必ず佛前に正座して礼拝するのであります。なかなか真似のできない行動であり、しかもわざとらしさが微塵(みじん)も感じられず、ごくごく自然の行為なのです。
 彼のそんな自然の姿から見えてくるものは、遠い日本の家庭の原風景かもしれません。彼が育まれた心豊かな家庭であり、ご両親や祖父母の顔さえも浮かんでくるではありませんか。佛壇を中心とした、ほのぼのとした家庭の風景が展開されています。
 佛壇とは、私たちにとってどのような存在なのだろうか。鶴瓶さんの行動によって、深く教えられるものがあります。私たちは真宗門徒としての生き方をめざしておるわけですが、亡き人たちの行かれた浄土をみずからの人生の最終目的地として生きることにあります。「死の帰(き)するところを、生の依(よ)りどころとする」と教えられておりますが、人間はこの世でのいのちが終わると、阿弥陀如来の佛の世界にかえってゆくわけです。この佛の世界が浄土であり、すべて浄土の住人となるわけです。すなわち「俱会一處(くえいっしょ)」の世界です。
 阿弥陀如来も浄土も目に見えるものではありませんから、例えば佛壇のなかの絵像は、本来、目に見えないものを形にあらわしたものです。私たちは、その形を拝み、その形をとおして真実の阿弥陀如来にふれさせていただいているわけです。butudan02
 佛壇を正しく荘厳し、給仕(きゅうじ)をおこたらず続けてゆくことが大切な由縁(ゆえん)であります。しかし「佛壇は亡き先祖をまつる位牌入れではなく」「佛壇は阿弥陀如来を安置するところ」と、理解できる道程(みちのり)は遠いものがあります。昔から「信は荘厳から」という言葉があります。荘厳することによって、いつの間にか真実の教えが身につき、佛壇の持つ深い意義にも目覚めて合掌する日が、必ず来るのではないかと思います。
 鶴瓶家の宗派は知りませんが、佛前の彼の行動には、いつしか心豊かにさせていただいている自分があります。けして篤信の家庭で育てられたわけではありませんが、振り返ってみれば佛壇中心の生活が営まれていたことが思い出されて、胸の熱くなる思いになることであります。

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