参拝旅行を終えて 釋縁顕(髙間 満昭)様より

投稿日:2011年9月1日

親鸞聖人750回大遠忌法要第一期団体参拝の参加者を代表して旅行記を書いていただきましたので、ご紹介させていただきます。

親鸞聖人750回忌大遠忌法要参拝団に参加して

西日本等では卯の花が咲く頃(初夏=梅雨)北海道札幌教区12班の親鸞聖人750回忌大遠忌法要参拝団は6月9日早朝に廣間山眞願寺境内を坊守さんに見送られ出発しました。

新千歳空港から神戸空港に着き京都の桂川を渡り「西山別院」へと向いました。
別院は旧本願寺阿弥陀堂を移築したもので現在は浄土真宗本願寺派の「得度習礼・教師教修研修道場」「西山幼稚園」を境内に併設し、本願寺教団の創設者で親鸞聖人の曾孫に当る覚如上人の御廟所であり、我が眞願寺の住職石堂了正さまも若き折り西山別院にお勤めされていた重要なお寺であります。我々一行は本堂にて「讃佛偈」をあげ覚如上人御廟をお参りし対面所にて昼食をいただきました。

御廟所は大きい樹が墳墓の上に根を張り正和の時代から変わりない命の流れを今に伝えているようでした。私が一番印象的だったのは、境内で子供達がボール遊びをして母親達が立ち話をしている境内風景であります。別院のような有名で重要なお寺の境内で遊ぶ子供達の姿は私の中にあるお寺風景と重なり強い印象と安らぎを感じました。

午後より参詣しました親鸞聖人の御廟「大谷本廟」には「・・・・先人にならいまずご廟に跪き、聖人の生涯を偲びつつ、南無阿弥陀佛とお念佛を申しましょう」と記されていました。親鸞聖人750回大遠忌とのことで普段は入れない明著堂の堂内で南無阿弥陀佛と念佛申すことは出来ましたが、聖人の生涯を偲びつつの参詣は勉強不足の為、不十分と思いながらの参拝でした。

また、大谷本廟には第一・第二無量寿堂納骨堂があり今回も幾人かの方が分骨されていましたし、先に納骨されている方は久しぶりのお参りとなったようで、それぞれの思いのなかで一時を過ごされておりました。

1日目の宿の場所は近くを散策するだけで数日を必要と思える場所で二条大橋と三条大橋の間に位置していました。近くの一角を数分歩くと、土佐藩邸跡・長州藩邸跡には桂小五郎像があり芸妓幾松と一緒に暮らしたと言われる料亭幾松があり数丁離れたところには池田屋騒動の池田屋跡・薩摩ゆかりの跡地など現代日本の夜明けの足跡を思わせる地域でありました。さらに、鴨川に平行して高瀬川が流れていますが、高瀬舟で知られる「一之舟入」と言われる終着地が夕食をいただいた懐石料理「がんこ高瀬二条苑」とホテルの中間点の高瀬川に碑が建っていることから水運の拠点であった事を物語っていました。

2日目は親鸞聖人750回大遠忌法要参拝の日であります。
本願寺に到着しますと多くのバスと参拝者でしたが、見事な誘導のもと整然と境内に入り法要参拝記念写真を撮影した後法要が行われる御影堂に入りましたが3000人以上の人で一杯でした。 我々札幌教区12班は45名ですが、新潟の地蔵堂A・B併せ195名、石川(鳳珠)217名等々大きい参拝団も多く見受けられました。
石川の皆さんは黄色い三角巾を首にまいて本堂内陣正面前列に居ましたので一段と大集団のように感じました。

我々は正面向かい左奥で本堂内陣は大型モニターでしか見ることが出来ませんでしたが、太鼓が近くにあり、ある雰囲気を感じるには十分でしたし、住職さんのご出勤姿もモニターで見ることが出来ました。

大遠忌法要は総局挨拶から始まり、記念布教福田布教使のお話し・ご門主様・新門様のご挨拶と今年3月の東日本大震災への哀悼と取り組みについて、親鸞聖人750回大遠忌法要のスローガン「世のなか 安穏なれ」についてお話し頂きましたが、現代社会の現実の中でどのように考えていくか実質的な行動は難しいテーマであると思われてなりません。バスガイドさんの話では中日新聞で親鸞聖人の特集をしているとのことでしたが、北海道新聞や京都新聞等で五木寛之『親鸞』を連載しています。

また、6月15日某TV 局で「人に価値あり!法然と親鸞、救いの道を探究した・・・・」タイトル番組が放映されていました。何故法然上人や親鸞聖人が「南無阿弥陀佛」にたどりついたか等々大変わかりやすく説明されている番組でした。
京都であれ地方であれ、今年は多くの人が仏教に接し、多少の時間を共有することが出来たのでないでしょうか。
このような時、西本願寺においてご門主様・新門様共に全国の門信徒の皆様共々「宗祖讃仰作法」によりお参りできたことは、かけがえのない一日でした。
今回の法要を縁に私達夫婦を含め13名が阿弥陀堂にて帰敬式に参列し、おかみそりを受けてまいりました。(法名は釋縁顕といただきました。)

京都から宿泊予定の岐阜長良川までは名神高速道路で養老を経由し一ノ宮より名岐バイパスで木曽川を渡り岐南町切通の“浄慶寺”に向いました。予定より遅れての到着でしたのでお寺の皆さんが今かとお待ちになっておられたようでした。
お寺の前の道路は昔の中仙道であり交通の要であるとともに地域としても栄えたようで、お寺の名前が市場山浄慶寺とあり、ホームページによりますと開基は文明18(1486)年また元和7(1621)年第12世准如上人より寺号をいただいたとのことです。
長い歴史のなかを地域の方々と共に現在に引き継がれた事が偲ばれるお寺で、浄慶寺の坊守さんは眞願寺住職さんのイトコとのことで、住職さんはじめお接待してくださった門信徒の皆さん穏やかな雰囲気のお寺で、住職さん坊守さんが地域と寄り添っての日々を思いお参りさせていただいた一時でした。
浄慶寺のホームページは一見に値する素晴らしい充実したものなので何かの機会に閲覧されるのも一考かと思います。
当日の宿泊は長良川沿いにあるホテルで日没後、鵜飼を楽しみました。
3日目は東海北陸自動車道を北上し飛騨古川から飛騨白川郷へと向いました。途中のひるがの高原SAでは日本三名山の白山・長良川源流の大日ヶ岳を仰ぎ見ることが出来るそうですが、あいにくの曇り空のため麗姿を見ることは出来ませんでした。さらに東海北陸自動車道で日本の道路トンネルとして第3位の飛騨トンネルを通過し白川郷に至り合掌造りの集落を展望しました。

萱葺きの葺き替え等の話から全国でも珍しい萱葺き合掌造りの明善寺を訪れることとなりお寺の庫裡は郷土館で民具等が展示公開されており本堂へは庫裡を通ります。
浄土真宗のお寺とのことでしたが、住職さんによると真宗大谷派で寺号をいただいたのが延享元年(1744年)とのことなので、長きに渡り地域の人々の生活と共に現在に至ったことが推察することが出来るお寺でした。本尊の阿弥陀如来立像はどえらいキンピカでした。

昼食も水田や社寺に囲まれた合掌造りの館で頂き飛騨古川へと向いました。飛騨古川は古い町並みもあり伝統風習が残る飛騨文化地域で、古川には浄土真宗本願寺派の円光寺・真宗寺・本光寺の三寺があり1月15日に親鸞聖人のご恩を偲び夜通しで詣でる「三寺まいり」は地域文化として今も多くの人々が参加されているそうです。

我々は三寺の一つ真宗寺に向かい参拝させていただきました。住職さんは30代で愛犬との独身生活との事でしたが、愛犬が洋犬でなく和犬ならもっと絵になったのにと私的には少し残念でした。
岐阜一宮等々から冬の野麦峠を越え故郷へ帰ってきた娘さん達はどんな思いで三寺まいりし、雪の野麦峠を越えて出稼ぎに戻って行ったのかと思う時、胸のつまるものがあります。
しかし、その時代から三寺が地域にとって身近な場所であり心の支えであり安らぎや喜び等のお寺であったのだと思われます。
飛騨古川は和ローソクが有名で、全て手作りの和ローソクは飛騨古川だけとのことでした。

古川を後にした我々は日光東照宮の「ねむり猫」等で有名な左甚五郎生誕の地と言われている飛騨高山の高山祭屋台会館を見学しました。写真やテレビなどで見る屋台やカラクリ人形は匠伝統の積み重ねで圧倒的な技術を我々に見せていますが、なぜ飛騨の奥の山郷で木工だけでなく塗り・金具等々の匠が育って行ったのか不思議に思われてなりません。
私達夫婦は名古屋から別ルートで帰ってきましたが、3泊4日を明るい皆さんと一緒に旅が出来た事を大変嬉しく思っています。
親鸞聖人750回大遠忌法要に皆さんと一緒に参加し旅させていただき有難うございました。

法名 釋縁顕(髙間 満昭)