お寺とクリスマス

投稿日:2010年12月24日

「住職の家はクリスマスするの?ケーキは?」とよく聞かれる。なんて野暮な質問だろうと私は思うけれど、皆さんどうしているか疑問なんだと思う。実際、クリスマスケーキをわざわざお寺まで持ってこられていただいたこともある。
 街に買い物に出かけても、テレビやラジオでもまさに一色となって、日本中「クリスマス」のようだけど、そんなことはない。現にうちでは一切「クリスマス」は関係がないし、プレゼント交換やケーキも食べない。それを話すと「え~?何でなの?子供がかわいそうでは?」と聞かれることも多い。逆に聞きたい。何で仏教徒なのにキリスト教の宗教的な大事な行事である「クリスマス」をするの?って。

 クリスマスは、イエス・キリストの降誕(誕生)を祝うキリスト教の記念日・祭日である。「神の子が人となって生まれて来た事」を祝うことが本質である。その為、各教会などでは厳かにミサが行われ、信者の方が集い、大事な一夜を過ごされるのだろう。

 日本人(ほとんどの方)は年末年始、宗教行事で忙しいようだ。クリスマスでイエスキリストのお祝いが終われば、お正月の支度、門松飾って神棚お飾りして、初詣は近くの神社へ「今年もいい年でありますように」とあちこちに祈願し、せっかくだからご先祖にもご挨拶をと、ついでに仏壇に参りお墓やお寺にも出かける。いったいいくつの宗教をしているのやら。宗教をどう理解しているのか、疑問だらけになる。

 うちは家族全員、浄土真宗の門徒であるから、生まれたときからいのち終わるまで、すべての大切な儀式はお仏壇の前と決まっている。そして他の宗教行事にあえて参加する必要もないと思う。しかし懇意にしている人の大切な儀式が他の宗教で行われるのであれば、参列し礼は尽くすが、それ以外は研修など勉強の為以外参拝などすることははないと思う。

 「こだわり」なのかもしれないが、信教の自由が約束されているからこそ、そこに「こだわり」たい。それぞれの人がそれぞれの明確なる信仰をもち、それを心のよりどころとして生きている。なのにその時の自分の都合で「にわか信者」で参加するのであれば、真のより所として信仰されている方に失礼になるのではないかと思う。
 お互いがお互いにそれぞれの信仰を尊び、認め合っていく世界が、「信教の自由」なのではないかと思う。自分のその時の都合で、何でもいくつでも宗教を「持つ」のは「信教の身勝手」なのではないかと思う。

 「生まれたときは神社に参り、結婚式は教会で、死んだらお寺に」そんなあなたの信仰はなんですか?心のよりどころは?

 私は「南無阿弥陀佛」のお念佛をいただき、「無碍の一道」をお浄土に向かって生かさせていただいています。なんとありがたいことか。いつも如来様とともの人生を、心のよりどころとして生かさせいただいています。