特集 親鸞聖人(5回連載) 第5回 帰洛と晩年 鈴木彰

投稿日:2009年9月1日

貞永元年(1232)60歳の頃、旅仕度をととのえた聖人は、ついに稲田の草庵を後にしました。それは密やかな出立でありました。聖人は『教行信証』の稿本を葛籠(つづらかご)に入れて、背負っていかれたのかもしれません。

途中、有縁の人びとへの最後の説法などで、京都の土を踏まれたのは嘉禎元年(1235)頃、長い長い旅からやっと京都に戻って来られました。「聖人、故郷に帰りて往事を思ふに年々歳々夢のごとし、幻のごとし・・・」と、『御伝鈔』に記されておりますが、63歳の仲秋の頃であったと思われます。

そして、帰京後は旧佛教との摩擦を回避して、ひたすら著作に励まれたのであります。『教行信証』をはじめとして、沢山の著述を通して伝導されたのでありますが、特に現在も親しまれている、沢山の和讃を詠みあげられているのです。(注1)

聖人の帰洛後、東国の人々には文書伝道のほか、縁あって上京した者には面談などされたこともありましたが、念佛を曲解する者などもあらわれて、信徒間に動揺が生じ、混乱をきわめました。
かくして聖人は意義是正のために息男善鸞を自分の名代として、東国へ派遣されたのであります。

 しかし、他力信心を否定して、異議を唱える東国教団の信心を崩壊させた善鸞を義絶し、その旨を「いまおやとおもふことあるべからず・・・かなしきことなり」と書状に披露されておるのであります。最も身近な実子に正しい信心を伝えることのできなかった悲歎のことばであります。このとき聖人はすでに84歳の高齢に達しておりました。「火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念佛のみぞまことにおわします」と聖人の述懐のひとつであります。

恵信尼様は、すでにそれより以前聖人82歳のときに、越後に行かれ、以来お2人は今生でお会いすることはありませんでした。

晩年の聖人が到達された信心の境地が、自然法爾(じねんほうに)でありますが、凡夫の生きる道として一切の分別やはからいを捨てて「自然(じねん)」のことわりのままに生きるべきことが説かれております、他力信心の極致であります。このことを聖人は「義なきを義とす」(注2)といわれました。

この頃「目も見えず候」と書簡に記されておりますが、88歳で著わされた『阿弥陀如来名号徳』を最後に、弘長2年(1262)11月28日(現行暦1月16日)90歳にて往生されたのであります。

『御伝鈔』には「弘長二歳任仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。それよりこのかた、口に世事をまじえず、ただ佛恩のふかきことをのぶ。声に予言をあらはさず、もっぱら称名たゆることなし。しかうしておなじき第八日午時頃北面右脇に臥したまひて、つひに念佛の息たえをはりぬ」と記されております。

注記

  (注1) 『浄土和讃』は、阿弥陀佛の浄土を讃えたものであり「弥陀成佛のこのかたは」などの正信偈六首引は、このなかの和讃です。
『高僧和讃』は七高僧の教理と徳を賞賛し、共に聖人76歳のときの著述であります。また『正像末和讃』は聖人85歳のときに原稿を作成されましたが、このとき善鸞事件の直後のあたり、末法への悲歎が深く、その心境をうかがう上でも注目すべきものがあります。
なお、この他にも多数の和讃の述作があります。
  (注2) 前の義は「はからい」のこと、後の義は「本義」のこと。すなわち本願他力とは、はからいを交えないことが、本来の意義すなわち正しい意味でよいと言うこと。

執筆を終って

 

もともと親鸞様のご生涯などを記す能力のない者が、筆を持ったものですから、今はただみ教えの一端なりとも、お伝えできたかどうか、そのことのみが心の中を去来いたすのであります。

私の生まれたのは、親鸞様ゆかりの稲田の近在でありますが、信薄き青年時代を過ごしてしまいました。しかし、この土地には親鸞様の史実や伝説綯い交ぜて多くのことが語り継がれており、そのことが親鸞様に近づこうとする潜在的なものとなったのではと、今はそのように考えております。連載についての力不足をお詫びして筆を擱かせていただきます。

合  掌

参考文献

 

「浄土真宗聖典」
「真宗辞典」
「親鸞」笠原一男
「親鸞入門」佐藤正英
「関東の親鸞伝承」石島滴水
「真宗史」福間光超、星野元貞
「親鸞」真宗教団連合、その他