連載シリーズ 親鸞さまの里 1

 清流に架かる長い橋を渡ると、間もなく祖父母の待つ曲屋が近づく。阿武隈の支脈が迫る氾濫原である地帯は、自然堤防上に集落が形成されている。いわば関東平野が北に尽きる辺りである。右岸の私の村は関東ローム層の台地にあり、地質の相違は農産物にも大きな相違がある。親鸞さまが布教伝道に歩まれた時代は奥郡と呼ばれた地帯である。
 青味がかって見える阿武隈の支脈の一箇所に、ひときわ目を引きつける逆三角形の白い山肌が眺められる。江戸の世からの大理石の産地である。
白色の結晶石灰岩は寒水石ともいわれ、水戸徳川藩の御留山として、一般の採掘は禁止されていた。遠い鎌倉の世の親鸞さまも、この山並みを眺められたに違いない。この地には史実・伝説ないまぜて多くのことが語り継がれており、親鸞さま縁の幾つもの寺がある。
 母の後先に纏りついて歩く子供たちも、枕石寺の屋根が見えてくると母を取り囲む。幾度か聞かされている親鸞さまの話なので、私は結末を諳んじている。母を囲んだ妹の一人は、就学前に逝ってしまった。梅の香の漂うなかで、私は隠れて泣いた。
 『出家とその弟子』の著書を知るのは後年のことであるが、倉田百三がこの寺の創建にかかわる話を素材として、宗教文学に独自の境地を拓いた、あの戯曲を書きあげたのである。
 ある雪の降り続く夕暮れ、親鸞さまがとある家の前に立って一夜の宿を請うた。しかし、断られて雪と褥に横たわったという。その夜主の夢の中に現れた観音が「起きて門前の僧を請じ入れよ」という声にはね起きてみると、吹雪の中で親鸞さまが石を枕に休んでいたという。早速迎え入れて無礼を詫びて弟子となり、やがて自分の家を寺にしたという。
枕石寺創建の言い伝えである。寺には『御枕石』があると聞くが、私は写真で見ただけである。
 流刑地越後よりやって来た親鸞さまが、常陸で過ごした歳月は、四十歳からほぼ二十年というが、どうして京都に帰らずに常陸を目指して来たのか、いまだ定説はないという。
理由の一つとしてあげられるのは、恵信尼さまの生家三善家の所領が常陸にあったとする説である。また、関東に向かって移住した農民の流れに従ったとする北陸・越後移住民の同行説がある。さらに救世観音の夢告説や領主の招致説など、東国移住の動機を推測する諸説があるが、何れにしてもその根本には布教伝道の固い意思が貫かれていたに違いない。

釋彰響(鈴木彰)

22-01

22-02

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